古代史論に入った

「時代を総括する必要」

連休を利用して古代史論に入ろうと思ったのですが、
内容的には以前発表した小見出しまではできているのですが、
「序論」が意外と難しい。

序論
倭は呉の太伯の後
卑弥呼の出自
神武は筑豊に東征した
空白の四世紀の実態
百済から来た倭王
磐井の乱と蘇我氏の興隆
隠された王朝と乙巳の変
二つの倭国と白村江の戦い
壬申の乱と九州王朝の終焉
東北王朝論

というのも、以前も書いたのですが、

日本国民のほとんどは記紀の創作した共同幻想に騙されているということ。
90年代末から2000年代にかけてこれらの事実が明らかになって行ったのですが、
この功績は、
旧石器捏造などに簡単に騙されたアカデミックな学者ではなく、
古田武彦の限界を突破した民間の歴史学者によりなされたもの。
吉本隆明の創刊した「情況」や「試行」という雑誌があり、
これらに結集した革命的左翼により天皇制の嘘八百が露見した。

で、九州王朝論がなぜ私にとってそんなにショックだったのか、
ということから始めなければならない。
それで、67年から 70年代にかけての記憶までさかのぼる必要があったのです。

1日かけてゆっくり記憶をたどり、
以下のような形で書きはじめました。

70年安保に関して、私は 2010年に次のように書きました。
私たちがその当時どこまであの時代の実相を認識していたかは疑問であり、それはただ単にその渦中にある者には時代の底流が見えにくいという歴史学の本質的逆説に理由があるだけではなく、その一端は若者特有の未熟さにもあったのではないかと思われるのです。確かにベトナム戦争は泥沼化し、B52が横田や嘉手納から飛び立ち原潜が横須賀や佐世保に寄港していたわけですが、一般学生が日常的にそれらの光景を目にするわけではなく、あくまで新聞やテレビ-それもアパートにはなく食堂などで見る-の間接的情報に触れていただけなのです。
―――――(中略)――――――
次の年は「プラハの春」と「パリの5月革命」で明け、夏休みには「ソ連軍のチェコ武力侵入」があり、逡巡していた私たちは既に東大・日大で結成されていた「全共闘」の流れにストレートに合流していくことになるのです。合言葉は「自己否定」と「連帯を求めて孤立を恐れず」、マルクスと吉本隆明の著作を携え、敢然とバリケードの中に立ったのでした。国家試験は拒否したものの、その先に何があるのかなど考えている余裕は誰も持ち合わせてはいなかったでしょう。
―――――(中略)――――――
この後新左翼運動は安田講堂の敗北を経て、70年安保の自動延長により一般学生レベルではほぼ収束し、後の連合赤軍事件で論理的にも破綻していったと私には思われます。

しかし、2019年現在の考えでは、最後まで戦った彼らこそ正当だったのであり、途中で戦線を離脱した私たちこそ非難さるべき存在なのだと思われます。離脱した私たちは80年代・90年代にかけてそれぞれの分野で経済的成功を達成し、それが各自の努力と才能によるものだと勘違いしてきたようですが、今にしてみればそれはこの国のGDPの順調な拡大によってもたらされたのだと思われます。
というのは、バブル崩壊後の私たちは、経済成長がもはや神話でしかなく、大企業から零細企業まで長い不況を体験することになったからです。その過程で、ベルリンの壁の崩壊・ソ連の崩壊を目の当たりにし、マスコミや御用評論家の唱える「資本主義の方が社会主義よりシステムとして優れている」とか「これからは新自由主義により一国枠を超えた世界システムが勝ち残るのだ」などという言説がまき散らされていったわけです。現在の私の眼からすれば、これこそが欧米金融資本のプロパガンダであったわけですが、当時はどのように考えるべきか迷っていたのが実情でした。
そんな中で、内外ともに数々の事件があったわけですが、その延長上に 2011年の東日本大震災があり、私たちは、ここに戦後というあいまいな時代が終焉したことに気がついたのでした。個人的に感じ取ったことを年表形式にしたものを見れば、当時の時代感覚が蘇るのではないかと思われます。

実際、膨大な事件があって私たちはそれを処理する必要がある
わけです。
それらを総括しなければ次の世代につなげない・・・。

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