壬申の乱と大津の皇子の変

「改竄・偽装は古代からの癖」

古代史論も大詰めを迎え、
いよいよ西暦600年以降 700年にかけての時代にはいります。
で、このあたりは「日本書紀」では、
上宮王朝を隠ぺいし豊系の歴史を前面に出すべく、
様々な造作が行われている。
例えば、聖徳太子のねつ造をしてみたり、
遣隋使や遣唐使の内容を脚色してみたり、
年代をずらしてみたり様々な偽装が行われている。
そんな困難な状況の中、
兼川普氏は「二中暦」の元号を追求することで、
時の主権者が誰であったかを明らかにしていく。

細かい点を抜きにして語れば、
唐の時代に成立した「随書」や「旧唐書」には二つの倭国が出てくる。
一つは 607年に遣隋使を送った九州の倭国、
もう一つは 608年に遣隋使を送った吉備播磨の倭国。
607年は有名な「日いずる処の天子」の国書を送ったわけですが、
これは上宮王朝の耳の弟で、
隋の煬帝を劇怒させたわけです。
608年に隋が裴世清を特使として派遣し、
608年の遣隋使(厩戸豊総)により、
倭国には九州の俀国以外に、
東方に秦王国がある事を確認し、
今後の窓口は秦王国にすべしと決定することになります。
その後、645年の乙巳の変で蘇我氏がほろぼされた後、
645~649頃孝徳の河内難波遷都に伴い、
斉明・天智も吉備・播磨飛鳥・難波辺りに遷る形となります。
「日本書紀」はこの乙巳の変を大化の改新などとねつ造して、
その後 695年の九州年号の大化につなげて天智の業績を讃えるのですが、
その間 50年分の激動がすっぽり抜けている形。
663年の白村江の戦いとは、
唐新羅連合軍と九州倭国&吉備・播磨の斉明・天智、
の戦いだったわけですが、
唐新羅と吉備・播磨の斉明・天智の間には予め密約があり、
そのために九州勢は完膚なきまでに敗北する。
その後唐は大宰府を拠点に日本を占領し、
その力を背景に斉明・天智は近江朝を近畿に開設する。
しかしチベットの反乱を契機に約 9~10年で唐は撤退。
同時にいったんは敗れた九州勢が近江朝を倒すのが壬申の乱。
「日本書紀」は天智と天武を兄弟のように描いて誤魔化すのですが、
九州王朝論からすれば天智は上宮王朝の出で、
天武が豊系に由来する。
しかし、天武亡き後、持統 =天智の娘が中宮として権威をふるい、
天武の正妻大田皇后の長男大津皇子を謀殺する。
この持統は実際は即位しておらず、
天武の次はその子高市が即位したのが本当のところ。
1986年に出土した長屋王邸跡の木簡がそれを証明しているし、
修復に際して発見された京薬師寺東塔の銅板の擦銘からもそれは明らか。
大体、「春過ぎて」という万葉歌だって筑豊の香春岳を詠んだものなのですから。

結局、持統の妨害工作により、
近江朝系の文武が即位して奈良朝につながっていくわけですが、
昨日アマゾンで探してみても、
九州王朝論をベースにして、
壬申の乱と大津の皇子の変について書かれた書籍は皆無。
桓武天皇の時大々的な焚書が行われたということが記録にあり、

「『日本書紀』には『帝王系図』が付いていたという--(中略)--新羅や高句麗から来て国王になった者や、民間から帝王になった者があるという。それを延暦年間に焚書させた」
「『神皇正統記』に有名な言葉として、昔、日本は三韓と同種だったけれども、桓武天皇のときに、全部それを焼き捨てたという」

ことがあったわけです。
この国にはまともな歴史学者はいなかった
というわけで、
九州王朝論者の中からこうした人が出てこないと現段階では無理。
私としては、
「二つの倭国と白村江の戦」を描き、
「唐占領後の半島と列島」で上記の史実に言及し、
最後に「東北王朝論」で 、
607年の遣隋使の位置づけは、
東北王朝・九州王朝を含む日本が海洋側、
隋が大陸側を分割統治することを提案したものであること、
それに対する中国側の返答が白村江であった、
という見取り図だけに現段階では留めるしかないと思います。

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