昭和史再考(2010年筆)

<072>昭和史再考(2010年筆) 日英同盟の終焉

 大正10年(1921年)5月9日、ポーツマス軍港では大英帝国の誇る大西洋艦隊が満艦飾で打ち揃い、当時の皇太子裕仁を出迎えたのでした。バッキンガム宮殿に向かう沿道は黒山の人だかり、大英帝国は最大級の親...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 大地震と金融恐慌

 大正12年(1923年)、関東大地震が第一次大戦後の戦後恐慌を構造的に悪化させる中、同15年(1926年)年末には天皇が崩御、一週間ほどの昭和元年が終わった翌昭和2年(1927年)は、暗い時代の始ま...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 石原莞爾の感性

 戦前一世を風靡した"西式健康法"というものがありますが、この代替療法との出会いがなければ現在の自分を考えることができないほどその思想は私にとって革命的でした。石原莞爾の名を知ったのもその過程でしたが...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 日本浪漫派の思想

 日本浪漫派について調べている途中、私は偶然にも元赤軍派議長・塩見孝也のホームページに辿り着き、その中の[パトリ論](「さらば赤軍派-私の幸福論」より)に注目せざるを得ませんでした。  塩見によれば、...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 陸海の亀裂

 前節でふれた「十五年戦争」という概念の成立には、実はもう一つの背景があったのではないかと私は考えています。それは関東軍による張作霖爆殺事件(昭和3年=1928年)頃から始まる軍部の暴走と、それに伴う...

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<072>昭和史再考(2010年筆) "事変"と"戦争"の温度差

 かつて左翼陣営から「十五年戦争」という概念が提出されたとき、その背景には太平洋戦争の戦死者や空襲による国内の損害といった「被害者意識」だけでなく、満州事変から日華事変に至る日本の侵略がもたらした責任...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 12月8日の光と陰

 昭和16年(1941年)12月8日の朝7時前のラジオは、真珠湾攻撃による日米開戦の大本営発表を告げる臨時ニュースに始まりましたが、この反響について保坂は次のように述べています。  「日中戦争が始まっ...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 検証なき作戦

 今、手元の辞書で「大本営発表」と引いてみますと、本来の意味の他に、「ミッドウェー海戦の頃から損害の過少発表が目立ちはじめ、不適切な言い換えが行われるようになり、勝敗が正反対の発表すら恒常的に行ったこ...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 天皇の巡幸

 戦後世代の私たちが開戦や終戦(敗戦)について語るとき、そのイメージには戦後教育や戦後の論調が投影されているのは当然であり、私自身の抱いていた考えは次のようなものでした。すなわち、天皇は白馬に跨って軍...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 吉田茂の焦慮

 戦後の日本の出発点を担った政治家とされる吉田茂は、昭和42年(1967年)10月に死亡し、その葬儀は戦後初の国葬とされましたが、私たちにはほとんど印象に残らなかったというのが正直なところです。しかし...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 単眼的トラウマ

 60年安保から70年にかけて検証してきた今、私には"左翼"の持っていたさまざまな弱点が時代と共に顕わになり、その脆弱さ故に経済成長の結果もたらされた豊かさの中に埋もれていかざるを得なかったような気が...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 平和と民主主義の神話

 60年安保とは何だったのか。私たちの世代とは10年程隔たりのある当時の状況について考察することは、ひと頃のマスコミ・文化人や旧左翼によって多用された「平和と民主主義」の実体的内容を明らかにすると同時...

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<072>昭和史再考(2010年筆) 旧左翼の歴史観

 冒頭で「新左翼」という言葉を用いましたが、私たち一般学生はいわゆるセクトに属していたのではなく彼等-ブント・中核派・社青同・核マル派等-とは一線を画していました。セクト同士の違いも赤・青・白のヘルメ...

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<072>昭和史再考(2010年筆) "赤トンボ"と新左翼

 私が故郷を後にして東京の大学に入ったのは、昭和42年(1967年)春のことでした。今、年表でこの年を繰ってみると、私にはあの時代の様々な記憶が、決してセピア色などではなくかといって最新のデジタル映像...

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