薩長皇国史観を越えるもの

「九州王朝論しかない」

幕末維新に暗殺された孝明天皇ですが、
同じ1866年に 第14代将軍家茂も暗殺されたことを、
副島氏の「幕末編」で知りました。
これは天皇と将軍が公武合体路線を強固に推し進めたためであり、
この事件はさらに1867年の坂本龍馬暗殺とも関連するとのことです。

1867年は将軍慶喜が大政奉還をした年ですが、
慶喜の腹積もりとしては、
天皇を頂点として公武合体し、
徳川将軍を筆頭とした諸侯会議という合議体制を目論んでいたと言われます。
それが10月のこと、龍馬の暗殺は翌月11月のこと。
龍馬は 天皇と幕府の合議体制を仲介したわけで(船中八策)、
そうなると 幕府に食い込んだフランスの勢力と影響力がいつまでも残る。
この時イギリスとしては、
これらを一掃するために薩長に無理矢理武力倒幕をやらせた。
そのために慶喜を朝敵とする勅許を傀儡の天皇から得て、
翌年の鳥羽伏見の戦いにつなげていくわけです。
要するに龍馬はグラバー邸の代理人であったわけですが、
武力クーデターに際しては不要になった人間として、
伊藤ら長州に暗殺されたというわけです。

薩長は傀儡としての明治天皇に都合のいい勅書を乱発させるのですが、
幕府とかあるいは我が会津などは、
朝敵とか錦の御旗とかにむちゃくちゃに弱い。
武器のレベルも射程4 km のアームストロング砲に対し、
幕府方は鉄の玉を1キロほど飛ばすだけの旧式の大砲。
鉄砲だってゲーベル銃に対抗できない。
英米資本の関与で勝敗は最初からついていたわけであり、
やすやすとクーデターを成し遂げた薩長土肥は、
戊辰戦争を制圧して藩閥政府を樹立していくわけです。
副島氏は幕末の国学から生まれた尊王攘夷の思想が、
途中で捻じ曲げられて行ったと言うのですが、
どうもそれでは対抗軸が弱い。
国学や尊王思想を九州王朝論から否定していく
ところからしか、
薩長皇国史観の問題は解決しないのではないか。
80年代に吉本隆明は、
「国民総敗北の状況」と言って大和朝廷の普遍性を崩す試みを行なったのですが、
それは その後20年以上かかって、
九州古代史の会等により成し遂げられたと言えます。

PROTOサイエンスから、あなたへ

株・先物・ギャンブルで実証された「予知能力」について知り、
治癒・好転に導く「驚異のパワー」を体感してみませんか

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA