外交の軸がぶれている

「大和朝廷の視野狭窄が継続」

一週間ほど前に行われたロシア東方経済フォーラムで、
安倍は全体会議で日露平和条約の締結を希望したところ、
プーチンがそれに対して、
「今この場で平和条約を結ぼう、前提条件なしで」
といったところ、
返す言葉もなくアルカイックスマイルを浮かべて終わりになったとのこと。
結局、安倍及日本政府の頭の中には、
日米関係が最重要で、中国・韓国などがそれに加味され、
ロシア沿海州のことなどは全く考えていないことがわかりました。

今週、「 近代以降の視野狭窄」という題で、
古代の蝦夷のパースペクティブが、
南は沖縄 から、 北はアラスカ・サハリン・カムチャッカ半島・沿海州まで、
非常に広大であったという話をしました。
私たちはこの国の歴史が九州から近畿・関東というように北上してくる、
という概念で考えていたのですが、
これは大和朝廷以来の視野狭窄に基づくものだとお話ししました。
で、東北王朝の年表も少し作ってみたのですが、
津軽と筑紫との交流は古くからあり、
稲作や製鉄技術も筑紫から津軽へ伝わったということです。
神武に追われた長髄彦や安日彦が直接津軽に来たわけではないのですが、
九州から追われた倭人たちは大挙して津軽にやってきたとのことです。
古田武彦は、 ここで「日本書紀」の「斉明紀」に、
660年 阿倍臣が200艘の蝦夷を率いて粛慎(黒竜江周辺の民族)を討つ、
という記述があることを取り上げています。
これは、蝦夷の将軍が黒竜江流域のアイヌ救済のために行ったということで、
中国王朝との軍事的緊張があったのだろうと述べています。
確かに粛慎というのは沿海州に古くから居住する民族で、
後の渤海とか女真とかに繋がるものです。
そして、 663年の白村江戦の後には唐に頻繁に接近し、
8世紀になると唐の柵封国として近畿王朝にも接近してくるわけです。

でその白村江戦ですが、
前軍坂東が破れて引いた後、
中軍九州が突入して全滅、
後軍吉備・播磨は九州の全滅を見届けてから撤退、
ということで、唐・新羅と吉備・播磨(中大兄と斉明)の間には、
九州王朝を滅ぼすという暗黙の了解があったようです。
でなぜそういうことになったかと言うと、
これまでは 607年の遣隋使で耳の弟が自分を日出る処の天子、
隋の煬帝を日没する処の天子と言ったことに対して中国が激怒し、
外交関係を事実上断絶したと考えられてきました。
しかし、筑紫の上宮王朝と津軽の蝦夷国との間に緊密な連絡があったとすれば、
607年の遣隋使は、
「日本を含む海洋側は我々が統治し、半島・大陸は隋が統治する」
という極東の分割統治を提案したのではないかとも考えられます。
そして、それに対する中国側の回答が白村江の全滅と、
唐新羅による九州占領であったと古田武彦は言うのです。
これを Yes/ No で見たところ、2対0で圧倒的にYesという結果に。
つまり,唐は環日本海戦略に関して、
蝦夷国と倭国をともに滅ぼして 、
自らの柵封国だけを存続させる意思決定をしたのだと考えられます。
その後の近畿大和朝廷による蝦夷弾圧が苛烈を極めるのは、
単に東北に豊富だった金や鉄だけが目的だったのではなく、
中国王朝の極東戦略を推し進めるという意味もあった
のではないかと思われます。
今回の安倍と日本政府の対応を見るとき、
対米関係だけしか目にはいらず、グローバルな視点が全くないのは、
古代人以下の視野狭窄だと位置づけられます。

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