日英同盟の終焉

 大正10年(1921年)5月9日、ポーツマス軍港では大英帝国の誇る大西洋艦隊が満艦飾で打ち揃い、当時の皇太子裕仁を出迎えたのでした。バッキンガム宮殿に向かう沿道は黒山の人だかり、大英帝国は最大級の親しみをもって歓迎したとされています。この外遊で裕仁は各国首相や著名な政治家・軍人たちと会話し、第一次大戦の欧州の戦禍・デモクラシーの拡大・貴族富豪と庶民との交流などを体験したといわれています。9月に横浜へ戻った皇太子を国民は熱狂して迎えましたが、それは明治35年(1902年)1月の日英同盟調印後の祝賀気分と同様だったと思われます。この皇太子訪欧の様子は、ちょうどこの頃普及しつつあったニュース映画として報道され、のべ2千万人が見たという人気ぶり、国民は改めて我が国が一等国の仲間入りをしたことを実感したに違いありません。
 しかし、その時既に「太平洋方面の領地に関する日英米仏四カ国条約」が準備され、その2年後に「日英同盟」は終わりを告げるのです。また大英帝国最高の名誉として裕仁に贈られた”ガーター勲章”も、昭和16年(1941年)の開戦を機に取り消されることとなるのでした。
 よく知られているように、日英同盟に至る道筋は列強同士の力関係のバランスから考察するのが最適だと思われます。当時の日本は明治27年(1894年)から28年(1895年)の日清戦争で得た中国・台湾・朝鮮に関する利権のうち、同年の独仏露三国干渉により遼東半島を返還させられました。しかし明治32年(1899年)に起こった義和団事件を機に、再び中国大陸への手掛かりを把握しつつあったのです。
 一方の英国も独仏露との関係で大陸内が緊張する中、義和団事件以来満州から撤兵しない露国を牽制することが課題となっていましたが、単独で中国大陸の利権を維持することは困難な状態でした。そこでそれまでの「栄光ある孤立」を捨て、まずドイツとの交渉を試み、その後義和団事件で活躍した日本に接近したと言われています。日本はその頃、朝鮮半島を巡って対露協調路線を探る伊藤博文等もありましたが、結局露国との衝突は避けられないとする山縣・桂等の工作が実り、日英同盟に至るわけです。
 第一次同盟は、日本が単独で対露戦に臨むこと・英国は好意的中立を保つ旨の秘密交渉がなされ、これにより日本は日露戦争に辛くも勝利していくわけです。第二次同盟(明治38=1905年~明治44=1911年)は、英国のインドへの・また日本の朝鮮に対する利権を認め合い、中国大陸については機会均等が謳われました。また第三次同盟(明治44=1911年~大正12=1923年)では、アメリカが交戦相手国から外されましたが、これ以降第一次大戦を経た頃には、太平洋をはさんで日米が対峙する時代に入るわけです。
 この流れがワシントン条約(大正10=1921年)に反映され、アメリカの思惑を尊重した形で先ほどの「日英米仏4カ国条約」により、「日英同盟」は終焉していく形となるのです。既に1899年に中国に関する「関戸開放政策」を唱えていたアメリカは、アジアにおける自国の利益を侵す存在として日露戦争後の日本を見ていたと考えられます。
 昭和という時代は、日英同盟終焉(大正12=1923年)の3年後に始まるわけですが、この頃までには、第一次大戦で漁夫の利を得た国内でも「西洋」の一定程度の受容が終わったところから、「近代の超克」という意識が芽生えてくるのは当然の成り行きでもありました。横光利一を引用しながら磯田は次のように述べています。
「『洋行なんてお父さん、あれは明治時代に云ったことですよ。向こうにいる日本人らは、もう日本へ洋行しないと、頭が駄目になると皆云ってますからね』(『旅愁』)。西洋への憧憬が、こちらの劣等感の克服をめざすにいたったとき、やがて”日本”という文化的理念が浮上してくる-(中略)-『洋行』という語感を恥じるのは、西洋崇拝を恥じるというのと同じことで、それが逆転して自負にまで高まってしまうとき、-(中略)-いささか倒錯した世界認識にならざるをえない。」
 その昭和15年(1940年)の基本国策要綱の中には、「八紘一宇」・「皇国」の文字が掲げられ、16年(1941年)の対米戦の宣戦の詔勅では、従来の「大日本国皇帝」に変わり「大日本帝国天皇」が用いられ、さらに従来謳われていた「凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ」の文言は消滅していくのです。
 「この思想は、『蛮夷』を排し『神州』を世界の中心と考える点において、『新論』の水戸国学の復活以外のなにものでもなかった。そして敗戦による『神州』の崩壊の結果」、こんどはアメリカという”巨大な体系”と日本人は向き合っていかねばならなくなるのです。

PROTOサイエンスから、あなたへ

株・先物・ギャンブルで実証された「予知能力」について知り、
治癒・好転に導く「驚異のパワー」を体感してみませんか