神代文字の実像

(2015年筆)

 先に私達は「縄文の記憶」において、「日本列島における縄文時代は、異民族の侵入という人種的葛藤のない穏やかでゆるやかな時間の推移の中にあった」こと、またこの社会が「列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成された」ことを知る機会を得ました。このことはさらに、「超古代からの何らかの民族的記憶や伝承が中央から駆逐された辺境エリアに残っているのではないか」という期待にもつながるわけです。しかし、その後さまざまな方面からのアプローチにもかかわらず、超古代と縄文をつなぐ糸は残念ながら発見できなかったのが実情です。

 なぜ私達がそれほどまでに縄文にこだわったかというと、三内丸山の発見以降我が国の文化がかつては東アジアはもとより、世界でも有数の文明であったことが解明されてきたからです。例えば三内丸山は、

 「列島内はもちろん、大陸、沿海州・アムール地方、更には南西諸島まで名の知れた拠点都市であったに違いない。したがって、ここには、あらゆる物資が集積し、いろいろな人々が集う交易センターすなわち国際都市であった。-(中略)- 次の図は列島内の交易ルート、交易品の数々である。生活物資から装飾品までが列島各地から三内丸山に集積していたことが分かる。」

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 縄文土器は世界最古の土器であるといわれますが、こうした文化的レベルの高さはさらに遡って旧石器時代にまでおよび、伊豆七島の神津島の黒曜石が3万8000年前の静岡の遺跡から出土することは、世界最古級の航海技術がこの時代の日本にあったことを証明するものです。また、静岡県の遺跡で見つかった3万年以上前の落とし穴は、世界で最古のわな猟の証拠となり、さらに、長野県で出土する砥石や石斧は、世界最古級の磨製技術が(オーストラリアと並んで)日本にあったことを物語るといわれます。こうした技術が元になって、縄文時代の高度な漁具・衣料(越後アンギン)・漆などにつながっていったと考えることが妥当と思われます。

 そして、こうした遺物が列島全体に分布していることは、この時代にかなり大規模な流通システムがあり、単一言語だけでなく文字もあったのではないかという推測を成り立たせる根拠ともなるのではないでしょうか。なぜなら、ヒスイをとってみてもそれには大まかに大珠・勾玉・その他に分かれ、大きさもさまざまながら、産地はすべて糸魚川付近に集中しています。もし全国からこの地に注文が来たら、一体どうやってこまごました受注内容を記録しておくのでしょうか。そうした疑問は黒曜石についてもあてはまり、国内はもとより大陸や半島の一部からも日本産のものが出土するということは、何らかの文字がなくては生産から物流のどこかの過程で動きがマヒしてしまうのではないかと思われるからです。

しかし、現在のところ縄文時代の文字に関する手掛かりは八方尽くしても得られておらず、わずかに痕跡を語るのは「琉球縄文字」程度でしかなく、このようなものがあれば確かに物の種類や数量の記録などは可能だったのかとも考えられます。辞典によると縄文字は結縄(けつじょう)と呼ばれ、「古く、文字のなかった時代に、縄の結び方で意思を通じ合い、記憶の便とした。中国・エジプト・中南米・ハワイなどで用いられた。沖縄で近代まで用いられていた藁算(わらさん)もその一つ」と説明されています。藁算については、「文字をもたない民衆が自分たちの集落における家族の数や各家庭の人数、金銭、穀類、その他の財産などを記録して管理するために発案した縄による記録法である。南米で用いられていた『キープ』の沖縄版と思えばよい。ただし、ワラザンの使い道はキープよりもずっと限定されていたし、起源は良く分かっていない」と説明されています。さらに、アイヌにもこうした縄文字があるようですが、いずれも完全な文章表現には程遠く、高度な抽象的概念を表現することにはやや無理があったのではないかと考えられます。つまり、仮に縄文時代に縄文字があったとすれば、広範囲の交易があっても生産・物流にさほどの支障はきたさないと考えられますが、数万年・数千年をさかのぼって超古代文化の伝統を受け継ぐという意味では、十分な情報量を伝えるには不十分といえるのではないでしょうか。

 そこで登場するのが「神代文字」であり、ウィキペディアによれば、

 「漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされる文字の総称であり、主に神社の御神体や石碑や施設に記載されたり、神事などに使われており、一部の神社では符、札、お守りなどに使用するほか、神社に奉納される事もあった」
「鎌倉時代のころから朝廷の学者によって研究されたほか、江戸時代にも多くの学者に研究されたが、近代以降は、現存する神代文字は古代文字ではなく、漢字渡来以前の日本に固有の文字はなかったとする説が一般的である。その一方で、神代文字存在説は古史古伝や古神道の関係者を中心に現在も支持されている。」

と説明されています。

 具体的には、
・天名地鎮(あないち) – 太占(獣骨占い)と関係があるという。
・ヲシテ – 『ホツマツタエ』に使われた文字。
・カタカムナ文字 – カタカムナ文明で使われていたとされる。
・サンカ文字 – 豊国文字を基にした三角寛の創作とされる。
・豊国文字 – 『上記(うえつふみ)』において用いられる。
などがあり、いずれも先にご説明した古史古伝とかかわりが深いものといえます。

しかし、「古史古伝の信憑性」でも取り上げたように、「上記(うえつふみ)」「秀真伝(ほつまつたえ)「カタカムナのウタヒ」は既にその信憑性がNOと出ているところから、あまり期待は持てないと思われます。実際、古史古伝同様、神代文字についての研究書もピンからキリまで多々あり、今回そのうち何点かをYES/NOで視てみたところ、藤芳義男氏の「神代文字の謎」がベストと出た次第です。

 氏は元々は河川工学者で、1955年から70年まで熊本大学教授を務められた異色の人材ですが、そのセンスと九州という土地柄があいまって独自の古代史論が展開されたようです。

 「世に神代文字と称するものは十幾種に達する」が、平田篤胤・落合直文・吉良義風・酒井勝軍・吾郷清彦等、いずれも「文字を研究することは少なく、書かれた内容に執着して、古事記や日本書紀に漏れた事項や相反する点を述べ、神代時代の解明の点に力を注いでいる。」

 こうした問題意識から氏は神代文字の比較考証に取り組んでいったわけですが、結論から言うと、

 「天照大神の昔に神宮文字が生まれ、それが天の岩戸の故地から出土した墓石の裏に刻印された岩戸文字に発展し、さらに上つ記文字に進化しただけでなく、八世紀半ばに片仮名文字として定着した」

のだというのです。また、こうした一連の考証により、

 「多数の自称神代文字なるものは実は七、八世紀に作られたものにすぎず、阿比留文字だけが七世紀(これが朝鮮の諺文から出たらそれは五世紀)のものであることの立証を試みた」

とのことです。

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さらに、これらの文字の年代はせいぜい紀元後の発祥であるという指摘も重要で、神代文字に限っていえば超古代の伝承が縄文にあったのか否かについての私達の期待は見事にくつがえされたと申しあげられます。さらにいうなら、氏の年代考証は--昭和54年当時という限界を考慮してもなお--かなりあいまいだと評価せざるを得ないでしょう。というのは、それぞれの神代文字で記された内容が、ほぼ記紀と合致している点が不自然だからです。先に「記紀神話からの脱却」で述べたように、記紀神話が全くのねつ造であり各地の神話・伝承を換骨奪胎して天皇統治の正当性を主張するために編集された大本営発表であるとすれば、これら神代文字の成立年代も七世紀に限りなく近いと考えるのが妥当ではないでしょうか。

しかし超古代への手がかりがこれですべて絶たれたわけではなく、次に検討すべきは「アイノ及び北海道の古代文字」や環太平洋地域に広がるペトログリフ(岩面彫刻)が日本でも確認されているという件です。北海道の古代文字とされるものの中で、手宮洞窟(小樽市)・フゴッペ洞窟(余市郡)などはペトログリフとして扱われることもあり、日本ペトログラフ協会をはじめとして活発に研究されているようですが、詳細は次項でお話したいと思います。

【参考文献】

・藤芳義男「神代文字の謎」(桃源社)
・朝枝文裕「北海道古代文字」(朝枝千景発行)
・川崎真治「日本最古の文字と女神画像」(六興出版)
・小泉保「縄文語の発見」(青土社)
・伊藤俊幸 日本人の起源
・Webナショジオ 研究室に行ってみた。国立科学博物館 人類史研究グループ 海部陽介 第5回 実は世界の最先端だった旧石器時代の日本列島

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