「倭は呉の太白の後」
(2019年筆)
古田武彦氏の九州王朝論に実証的な道筋をつけたのは、九州古代史の会をはじめとする民間の歴史学者たちでしたが、その中心は室伏志畔・大芝英雄・兼川晋の三氏であり、本稿はこの三氏の著作が元になっております。そして、3世紀までは室伏氏の「誰が古代史を殺したか」が主体となり、4世紀以降については兼川氏の「百済の王統と日本の古代」をベースとしました。室伏幻想史学の鋭い切れ味で原倭国の行方を探り、兼川氏の精緻な考察で壬申の乱までを跡づけたと申し上げられます。ただ、大和朝廷の起源に関しては両氏の考察でもはっきりせず、これに関しては大芝氏の「大和朝廷の前身豊前王朝」に依拠しております。
実は、古田氏始め九州王朝論者がよって立つのは基本的には「記紀」の記述なのですが、戦後の歴史学は「記紀」が神話としたものを全て排除し、合理的に考えられる部分のみに話を限定したわけで、これが致命的な間違いだったと彼らは言うのです。例えば、神武東征譚、饒速日ニギハヤヒや邇邇芸ニニギの天孫降臨などがそれですが、ニギハヤヒがニニギよりも先だったことは皆共通しているのですが、それをどう位置づけるかに成功したのは大芝氏の卓見による。ただ、氏のいう年代だとすると、兼川氏の4世紀後半以降の精緻な考察とぶつかってしまう。さらに、「神武の即位は紀元121年で、委奴国を滅ぼし邪馬台国を作った」という福永晋三氏の説もあり、事態はさらに錯綜してくるのです。
こうした場合私共は「YES/NO」という手法を使って判断をしてまいります。この手法は現在、株や先物価格までもほぼ正確に予知できる精度となっておりますので、過去・現在・未来にわたるすべての事柄に正確な答えを出せる方法と考えております。例えば、室伏氏の「記紀神話」の解釈は万世一系の天皇制の枠を破り、九州や出雲における天皇制に先立つ王朝交代史を明瞭に浮かび上がらせるのですが、年代が不明瞭なところが欠点となり、これに関しても「YES/NO」の結果をもとに年表等に結び付けた次第です。
その室伏氏によれば、春秋戦国時代の大陸で戦乱に追われた呉越の民が黒潮に乗り、韓半島から九州・日本海側に漂着したのがわが国の稲作の開始につながるということです。越王勾践により呉が滅ぼされたのが前473年、その越が楚に滅ぼされたのが 前334年ですから、流入する江南系民族のうち呉の民がまず北九州に到着し、遠賀川上流に原倭国(倭や委は稲の穂が実りしな垂れた姿=稲作民)を作り、遅れてやってきた越の民は出雲で八雲王朝を形成することとなります。原倭国は現在の福岡県飯塚市周辺で集団稲作文明を開始し、そのトーテムは犬であり、これがのちに博多湾岸の委奴国につながるとされます。舟葬様式の甕棺墓制の古墳の出土や遠賀川式土器の全国分布がこうした説の証明であるということです。そして倭国の「倭」の音はもともとwiであったのであり、この音が時代とともに飯塚の「飯iwi」になったり、熊襲として朝敵とされて以降は「井orヰiwi」と変遷し、戦国時代の「井伊氏」などもその流れにあるとされます。また、「梁書」「晋書」をはじめとする多くの漢籍に「倭は呉の太白の後」と記されていることもこれらの事実を裏付けるわけですが、官製歴史学は一切これに触れずに大和における万世一系の天皇制の歴史を日々唱えている惨状なのだと指摘されます。
一方出雲に到達した越の民は、彼らの源郷である河姆渡(kaboto)遺跡の記憶をこの地に刻むため、蛇をトーテムとする神魂神社を建立し、この音はkamosuでありバ行からマ行への転換であったといわれます。ともに南船系の呉越の民はこのようにすみ分けを図ったわけですが、越の民は出雲のほか越前・越中・越後まで広がり、この呉音がwotiであることから、越智という姓が多かったり高志国と呼ばれるのもこうした由来を考えれば当然のこととなるわけです。いずれにしろわが国の稲作文明はこうした長江流域の民によってもたらされたものであり、稲の品種もジャポニカ米であることを考えると文化的な同一性は疑いようもないことになります。
ところで、大陸では前221年に秦の中国統一があり、その後前202年には漢(前漢)が成立し、次第に大陸の状況が安定化してくると、南船系民族の半島・列島への移動は激減し、かわりに北馬系民族の南下が活発となっていきます。例えば韓半島では北方騎馬民族の南下により、半島の南船系倭人の中心としてあった狗邪韓国の勢いも衰え、次第に北馬系を中心に再編されていくこととなります。この流れは隠岐・対馬を経由して列島にも影響していくわけですが、これが「記紀」の記す須佐之男命の出雲侵攻であり、北九州に侵攻した北馬系民族により原倭国が遠賀川上流を追われ博多沿岸に移動せざるを得なかった理由とされます。
原倭国では最初甕棺墓制だったのが、あるとき以後北馬系の箱式石棺墓制に代わり、甕棺墓に前漢鏡と思われる鏡が出土するのに対し、箱式石棺墓からは後漢鏡しか出ず、被葬者も短脚から長脚に変化している。このことこそ原倭国が侵略にあった証拠であり、博多湾岸におちのびた倭人たちがその地で再興したのが金印国家・委奴国だという驚くべき事実が明らかにされます。この金印の刻印を「漢の委(wa)の奴の国王」と読ませてきたのが従来の官製の歴史ですが、それは多くの漢籍が「倭は呉の太白の後」と記していることも無視し、大和朝廷が悠久の昔から近畿にあったという皇国史観にどっぷり浸かっているせいだというわけです。室伏氏によれば、
九世紀成立の「新撰姓氏録」に「呉の太白の後」を主張する松野連があるのに注目した平野雅曠は、その「松野連系図」に春秋戦国時代の呉王夫差の子・公子忌が火国山門に来たり、筑前で委奴(イヌ)国を立ち上げ、後漢から金印をもらった王を宇閇とし、卑弥呼や 倭の五王に及ぶ瞠目すべき注記のついた略系図を見出した。
ということで、後述する「二中暦」もさることながら、この国でかつて大規模な歴史の改竄があったことを私たちは知らされます。こうした事情がさらに良く現れているのが出雲王朝の成立やそののちの国譲りであり、出雲神話を切り捨てた戦後の歴史学は、96年に出土した加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸や 83~84年にかけて発見された神庭荒神谷遺跡の358本の銅剣≠銅矛+形の違う16本の銅剣≠銅矛と6ヶの銅鐸の意義を全く説明できない体たらくだとされます。すなわち、銅鐸の起源は通説では近畿(和辻哲郎による畿内=銅鐸文化圏・九州=銅剣・銅矛文化圏説)とされているのですが、加茂岩倉・神庭荒神谷両遺跡の発見により、出雲王朝の実在はもはや疑いえないものとなり、銅鐸の起源も通説とは異なり出雲であったと考えられると室伏氏は主張するのです。
つまり、加茂岩倉遺跡からの 39個の銅鐸は神魂命の神宝の埋葬であり、その意味するところは八雲族(八岐大蛇)の銅鐸王朝が北馬系の須佐之男命に征服されたことを物語り、列島は次第に南船系倭人社会の上に北馬系勢力が乗っかる時代を迎えるというわけです。この須佐之男命による大州征服に続き大穴持命が大国主命とよばれるのは、新大州主命という意味であり、八雲王朝の継承を暗示するとされます。そのレガリアは銅矛となり、大国主命の別名が八千矛神とよばれる理由であるなら、神庭荒神谷遺跡の358本の銅剣≠銅矛の埋葬は、時代を下った八千矛神である大国主命後裔からの国譲りを象徴することになります。「神代のこれらの逸話は、出雲での銅鐸王朝から銅矛王朝への転換と、その出雲王朝の終焉を語るものにほかならない」と室伏氏は語っています。
では、神庭荒神谷遺跡において、形の違う16本の銅剣≠銅矛と6ヶの銅鐸が発見された意味は何なのか。それは八千矛神系とその妃系のレガリアを区別した埋葬と考えるしかないと室伏氏はいうのです。つまり、形の違う16本の銅剣≠銅矛と6ヶの銅鐸の埋葬は、「八千矛神の伴侶に迎えられるまでに八雲王朝末裔の復権が出雲王朝内であったことを示唆する」ということで、これにより近畿地方で銅鐸祭祀が一世を風靡する一方、それに不満を覚えたのが新たに九州に攻め入った北馬系民族であり、これが出雲王朝の国譲りにつながったとされるわけです。
なお、須佐之男命の征服により、神魂命系の大氏後裔が畿内へのがれ、国譲り以後の大氏後裔も畿内へ向かったことが近畿におけるその後の歴史展開の布石であったということです。すなわち、81年に琵琶湖東岸で弥生環濠集落たる伊勢遺跡が発見されるのですが、この近くの大岩山では、早くも1881年に日本最大級の大型銅鐸14ヶが発見されており、62年にも中型銅鐸10ヶの発見をみている。これは、この地が神魂命系の一大銅鐸祭祀地であり、さらに単なる銅鐸祭祀から後に日神信仰への新たな展開をみせたことを物語るわけですが、3世紀にこれが突如途絶えることは国譲りと関連しているとされるわけです。そしてずっと後に、「伊勢」神宮へつながったのだと室伏氏は推理しています。皇室が明治以前に伊勢神宮への公式参拝を行わなかったのは、そこが大和朝廷の由来とは縁もゆかりもないどころか、民族的には全く異なる海士族系の宗教施設であったからではないかということです。
記紀神話の捏造・改竄については、この後「神武東征」の段で説明しますが、上記で述べた加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸や神庭荒神谷遺跡の358本の銅矛の銅・錫比率が、長江文明の三星堆遺跡や殷の二里頭遺跡の青銅器の比率と一致していることや日本の漢字訓みが呉音であるにもかかわらず、戦後歴史学はいまだに旧石器ねつ造と似た混迷というより怠慢の中にあると室伏氏は指摘します。
記紀はこの出雲におけるスサノオの八岐大蛇退治を神話風に描いた。それを戦後史学は神話として歴史から区別し、歴史対象から外すことをもって「科学的歴史観」とした。しかし、それは神代に限って云えば、記紀を神典と信じ、批判対象から外した国学者と同じことで、歴史批判を回避する点で一つ穴のむじなであった。八岐大蛇は蛇をトーテムとする越系八族を意味し、彼らは八蜘蛛と侮蔑され、その征服は「八蜘蛛断つ」と表記された。
そのことは「出雲國風土記」が出雲国を九郡に分け、その一つの出雲郡にスサノオの事跡があることに明らかで、彼は八雲族の酒宴の席で酔った八王を殺し、出雲郡を中心に八雲国を再編し出雲国としたのだ。その制圧に続くおぞましい事件を告発した歌が、次の如く表記変換され、記紀を中心に流布したが、それはスサノオと奇稲田姫の相愛の歌に現在、変形され語られる。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
それは二人が幾重にも雲を帳に籠られたとする日本人好みの恥じらいをもつ歌として国文学者は流布してきた。しかし八重垣は掟、法律で、妻ごみは女込みと同様、強姦のことである。一首の本来の意味はサンカが伝えたように、八岐大蛇退治において八蜘蛛族は征服された時、スサノオ勢力は、その八雲族の女に襲いかかり、その時強姦を禁止する掟はあったが、むなしかったとする、これは嘆きの歌なのだ。
わが国の歴史学者や国文学者の「1300年間にわたる浅ましい阿りと、知の逆立ちを当然とする言説が天下を導くところにこの国の不幸がある」とする指摘を、私たちは刮目して相待たねばならないようです。
【参考文献】
・室伏志畔「「誰が古代史を殺したか」(世界書院)
・兼川 晋「「百済の王統と日本の古代―“半島”と“列島”の相互越境史」(不知火書房)
・大芝英雄「「豊前王朝―大和朝廷の前身」 (同時代社)
・古田武彦 「真実の東北王朝」(ミネルヴァ書房)