守谷健二氏の「二つの正史(旧唐書と新唐書)について」

「市井にはまだ素晴らしい人がいる」

現在私は「日本中世奴隷制論」に取り掛かっているのですが、
その前に「改竄された記憶・日本古代史論」に関係する、
非常に重要な論考をご紹介したいと思います。
副島隆彦学問道場の会員で守谷健二氏という方なのですが、
いわゆる二つの倭国問題について、
「旧唐書」と「新唐書」の記述の違いがなぜ生じたのか、
そしてどちらの記述が正しいのかについて明確に解明している。
かつて私は「改竄された記憶・日本古代史論」の序文で、
以下のように書きましたがこれだけでは非常に抽象的。

私の日本史論は、最初に古代史論として「改竄された記憶 日本古代史論」が来なければならない。というのも、「旧唐書日本国伝」に「其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対こたえず。故に中国これを疑う。」という記述があるからです。すなわち、改竄は「日本書紀」に始まり、遣唐使として中国に渡った日本国の使者は、その偽りの史書の言葉で自らの「歴史」を語り、中国側はそれを疑いの目で見たとされるからです。古代史の真実がこの国の学校で普通に教育される日がいつ来るかはわかりませんが、それを国民が―右から左まで―共有しない限りこの国の再生はありえないと考えられます。

それで、この5月にUPされた今回の守谷氏の記述の主要部を引用します。


■二つの正史(旧唐書と新唐書)について

中国正史『唐書』は、二つあります。西暦945年に成立したものと、西暦1060年成立したものです。両書を区別するため、先に出来た方を『旧』、後に出来た方を『新』と呼んでいます。両書とも奉勅撰のれっきとした「正史」です。
既に正史『(旧)唐書』が成立していたのに、どうして新たな「正史」を必要としたのか?
『(旧)唐書』は、唐末の戦乱で史料に欠損があり唐末期の記事が不十分であった。宋の時代に入り、新たな史料が多数発見され、より充実した「歴史書」の作成が求められた、と説明している。
日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し、『旧唐書』は無視されてきた。
豊富な史料を基に、宋朝と言う安定した政権のもと、当時の第一級の学者を集めて編纂したのだから『旧唐書』よりはるかに出来の良い「史書」が出来たはずである。
しかし『新唐書』の評判は極めて悪い。1064年に編纂を開始した『資治通鑑』の司馬光は、唐代の記事を『新唐書』に依らず『旧唐書』に依拠している。
考証学が盛んになった清の時代の学者たちも『旧唐書』の方が『新唐書』より信頼性に勝ると言う。これは現代の中国史学の定説でもある。
しかし、日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指してきた、その理由を見て行きます。
両書の最も大きな違いは、日本記事にあります。以前に書いたように『旧唐書』は、七世紀半ばまで日本を代表していたのは倭国(筑紫王朝)と書き、八世紀初頭から日本国(大和王朝)と書く。つまり日本では七世紀の後半に代表王朝の交代があった、と。
663年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍と戦ったのは倭国(筑紫王朝)であったと明記する。
983年成立した『太平御覧』は『旧唐書』に基づき倭国と日本国の王朝交代説を採っている。つまり宋の代に入っても七世紀後半に日本では王朝の交代があった、と認識されていたのである。(宋の成立は960年)
いっぽう『新唐書』は、日本には開闢以来王朝の交代はなく、天御中主(あめのみなかぬし)の神を祖先とする天皇家が途絶えることなく今に続いているとする「万世一系」の天皇の歴史として書かれている。
つまり、宋朝では『太平御覧』が成立した983年から『新唐書』が成立した1060年の間に、日本に対する認識を変えたのである。驚くべきことである、中国は歴史の国である、何よりも歴史を重んずる。先の歴史書の記述を変えるなど絶対に許されることではない。しかし『新唐書』の編者たちは、先の「正史」の記載を捨て、やすやすと新しい認識を書いている。ただ事ではない、いったいどのような事件が在ったのだろう。
■中国(宋朝)は何故日本認識を変えたのか

『旧唐書』(945年成立)と『太平御覧』(983年成立)の日本認識は、七世紀の後半に王朝の交代があったというものです。
それに対し『新唐書』(1060年成立)の日本記事は、日本の開闢以来、王朝の交代はなく天御中主の神を祖とし今の天皇に至るまで血が途絶えた事はなく万世一系の天皇家の支配が続いて来た、と書く。983年から1060年の間に宋朝の日本認識に大きな変化が起きていたのである。今回はその原因を探ってゆく。
正史『宋史』より引用
雍熙元年(北宋の第二代大宗の年号、984年)、日本国の僧奝然(ちょうねん)、その徒五、六人と海に浮んで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代紀』各一巻を献ず。・・・・
――(中略)――
984年に、東大寺の僧奝然が宋を訪れた記事が載せられている。小生が疑問に思ったのは、奝然が中国に着くや、いとも簡単に皇帝に拝謁を許されていることです。奝然は、日本国の正式な使者でも高名な学僧でもない、その彼が如何してやすやすと皇帝の拝謁を得ることが出来たのだろう。太宗が奝然の来朝を大いに喜んだ様子が書かれている。日本の『職員令』や『王年代記』に喜んだとは考えられない、事の核心は一緒に持って行った銅器十余事にあったのではないか。銅器十余事とは一体どの様な物だったのだろう。
岩波書店の『日本歴史年表』(第四版)に次の記事がある。
982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。
983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り皇帝に拝謁。
銅器十余事には、陸奥国で産した黄金がズッシリ詰め込まれていたのではなかったか。
『旧唐書』が成立したのは945年である、既に海上交易は盛んになっていた。宋商人の船はたびたび博多を訪れるようになっていた。日本で最も喜ばれた品物の一つに経史があった。抜け目のない宋商人は、最新の歴史書『(旧)唐書』を運んで来ただろう。それは平安王朝に献上されたに違いない。
王朝人は愕然としたのだ。平安王朝の正統性は、万世一系の神話と歴史にある。大宝三年(703年)粟田真人の遣唐使以降の遣唐使の使命は、唐朝に日本国の歴史(天武天皇の命令で定められた)を説明し、承認してくれるよう説得することを第一義とした。その為大きな犠牲も払っていた。ある程度成功したのではないかと言う手ごたえもあった。
『(旧)唐書』は大きな衝撃を平安王朝に齎したのであった。時に平安王朝は全盛期を迎えつつあった。貴族は活力と自信に満ち溢れていた。来日する宋商人に中国の内情を聞き対策を考えたのであった。中国では商工業が活発になり庶民の生活は豊かになっていた。当然税収も増え宋王朝の威力も盛大であると考えられたが、実情は違うらしいことが判ってきた。
宋朝は、中国統一王朝であったが、北方の遊牧民国家遼の侵略を受け本来中国の固有の領土である長城の南の燕州十六州(今の北京周辺)を奪取され、回復を試みるも大敗を繰り返すだけであった。遼の更なる南化を防ぐため、毎年膨大な金銀財宝、食料、美女などを貢納せねばならなかった。宋朝は金で平和を買っていた。そのため宋朝の台所は常に火の車であった。
平安の貴族どもは、金で何とかなると考えたのだろう。奝然に持たせた黄金だけではない。彼の後にも膨大な金銀財宝を献上している。『旧唐書』の日本記事を否定する新たな『歴史書』の制作を依頼したのだ。完成の暁にはより多くの財宝の献上をちらつかせながら。(続く)
小生は『日本歴史年表』(岩波)を信頼している。
■「ジパングは黄金の島」の根拠
マルコポーロの『東方見聞録』に「中国東方海上に、黄金と真珠を豊富に産出するジパングと言う島国がある」と書かれている。このジパングは日本のことだと言う。真珠の採取は、『万葉集』の歌にも多数あり納得のゆくものであるが、黄金の方はどうだろう、奈良時代東大寺の大仏を作る際、聖武天皇の悩みは、大仏を荘厳するための金が絶対的に不足していたことであった。
この時は、偶然に陸奥の国から黄金が発見され、黄金で飾ることが出来た。しかし奈良時代平安時代を通して、陸奥以外に大金鉱が発見された痕跡はない。
奝然が宋の皇帝太宗に献上した黄金(銅器十余事の中身)も、陸奥国からの貢物であった。(982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。岩波・日本史年表第四版)
日本で、溢れるほどの金が取れてたとは考えられないのだ。ジパングの黄金伝承は、いったい何に基づいているのだろうか、これが私の少年時代からの疑問であった。
しかし今、正史『新唐書』・『宋史』の日本記事を知った。東大寺の僧奝然は、膨大な黄金を持って行ったのだ。『旧唐書』の日本記事は、平安時代の貴族に大衝撃を与えたのである。王朝の正統性の根拠は、神を祖とし、血の断絶のない「万世一系」の天皇の家系の歴史にある。つまり日王朝の交代)がなかったことである。
しかし『旧唐書』は、七世紀の後半に日本に王朝の交代があった、と書く。許せない事であった、見逃すことの出来る問題ではなかった。中途半端な対応では済まないことであった。王朝が存続出来るか否かの問題であった。
日本の王朝は可能な限りの黄金を集め奝然に持たせて宋に渡らせた。『旧唐書』の日本記事を書き換えてもらうために。日本の陸奥国には黄金があふれ出る金鉱山が存在する、と大言壮語して。新たな「史書」の完成時には今回以上の黄金を献上いたします、と。
988年には、奝然の弟子の嘉因に膨大な宝物を持たせて宋朝に派遣している(日本史年表)。日本の王朝は、何が何でも『旧唐書』の日本記事を否定する新たな「正史」を欲したのであった。
この日本の願いと、宋朝の台所事情(毎年膨大な金銀財宝や食料、美女などを北方の遊牧民国家に納めなければならなかった)がジャストマッチしたのだろう、宋朝は『新唐書』を編纂したのであった。
1060年の『新唐書』の完成は、天武十年(681年)、天皇の命令で始まった『日本書紀』編纂の完結を意味する。『日本書紀』は、その第一の読者に中国の唐朝を想定して創られた「史書」である。天武の王朝の正統性を唐朝に認めさせるために書かれた歴史だ。
日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し、『旧唐書』は、完全に隠蔽されてきた。
しかし中国では1065年編纂を開始された『資治通鑑』(史実に忠実であると極めて信頼性が高い)は、唐代の記事は『旧唐書』に依拠し、『新唐書』には目もくれていないように『新唐書』は完成当初から軽蔑の目で見られる歴史書であった。
奝然の献上した黄金と、日本の陸奥にある黄金を溢れるように産する大金山の話が三百年後のフビライハンの王朝まで伝わりマルコポーロの『東方見聞録』の黄金伝承に成ったのではないか。
またフビライの日本に対する異常な執着(二度に亘る元寇)の根底にあったのも奝然の献上した黄金にあったのではないか。
仮に『新唐書』がなかったなら、天皇制の王朝は平安時代で終わっていたかもしれない。
■『古事記』と『日本書紀』の関係
大宝三年まで天武の王朝(天武天皇を祖とする)を正統化する歴史は、一応完成していたのです。(これを今、原日本書紀と呼ぶ)
『原日本書紀』の歴史では唐朝を納得させることが出来なかった、天武の王朝の正統性を認めさせることが出来なかった。故に『原日本書紀』を修正する必要があったのです。
『古事記』は、『原日本書紀』のコンパクト版です、『原日本書紀』を修正する際の指示(命令)書です。
『旧唐書』日本国伝より
日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは云う、日本旧小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て応えず。故に中国是をう。・・・・

この『古事記』と『日本書紀』の関係についての考察は、
九州王朝論を知らない人の論理と考えられ、
正しくは「『古事記』(=倭国九州王朝の歴史書)の神武東征の部分を、
本来は神武は筑豊に東征したという記述を、周防灘・瀬戸内海から近畿に東征したと改竄した
ものと位置付けられます。
この部分に間違いがあるとはいえ、
上記の守谷健二氏の考察で九州王朝論はかなり補強されたわけです。

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