古代史年表が出来た(3)

「敗者達の歴史」

今週2回にわたって古代史年表について書きましたが、
この年表はあくまでも概略のものであり、
また、歴史に残るのは勝者だけだということにも注意しなくてはなりません。
敗者は歴史の闇に埋もれてしまうからです。
そういう意味で最初の存在は、
八雲王朝(八岐大蛇)がスサノオに侵略された時の越の民であり、
この 神魂命系の大氏は畿内へ逃れて銅鐸文化圏を形成する。
出雲ではこの他に、3世紀前後に九州勢への国譲りがあったわけですが、
この時、出雲王朝後裔の大氏も機内へ逃れて行ったのです。

次の敗者は委奴国の残党で、
邪馬台国やその後の熊襲退治に際して、
現在の菊池市・竹田市・山鹿市あたりまで後退して 、
最後まで抵抗した勢力です。
彼らはその後、一部は東北へ移動してヤマトへの抵抗を貫き、
これが蝦夷と一体化していく形で、
後の近畿大和朝廷と争っていく形になります。
九州王朝を発見した古田武彦は、
後に「 東日流外三郡誌」が偽書ではないことを主張して、
古代東北王朝論を樹立していますが、
今回の年表に書かれた歴史はまさに西日本のみの出来事であり、
ひょっとして、三内丸山から続く王朝が東北にあったとすると、
それを考慮しないのはあまりにも片手落ちになってしまうと言えます。
しかし、これもかなり膨大な作業になるため、
次回以降の課題としたいと考えております。

また、392年に筑後から追われた武内宿禰も近畿に逃れ、
先に近畿に来ていた出雲系大氏とともにあって、
後の壬申の乱の九州天武はこれらと手を結んで事をなしたようです。
4世紀以降の九州王朝の支配が、
日本のどの程度まで行き届いていたのかは、
兼川氏の考察でもよく分からないとなっていますが、
少なくとも倭の五王朝の最後すなわち5世紀後半には、
筑紫の都と常陸の都があったようですし、
白村江の戦いを担ったのは、
中大兄の吉備・播磨勢と九州勢以外に、坂東勢もいたわけですから、
少なくとも関東地方までは支配が行き届いていたのかもしれません。
いずれにしろ、唐の時代に勝者となった近畿大和朝廷と藤原氏が、
いくら正当性を主張してもその根拠たる「書紀」が改竄されているために、
祀ろわぬ人々を根絶やしにすることは不可能だった
のであり、
これが南北朝時代、織豊政権時代、江戸の身分制度、明治維新など、
節目節目で噴き出すのが日本歴史の基本矛盾といえそうです。

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