天皇の巡幸

戦後世代の私たちが開戦や終戦(敗戦)について語るとき、そのイメージには戦後教育や戦後の論調が投影されているのは当然であり、私自身の抱いていた考えは次のようなものでした。すなわち、天皇は白馬に跨って軍部を統帥し自らも積極的に戦争の指揮を取ったが、軍部の独走や戦争の長期化によって敗れ、それまで重圧に苦しんだ日本人民は双手を上げて米軍を歓迎した、というようなものです。いつ頃どのようにしてこうしたイメージが出来上がったのかは分りませんが、これが太平洋戦争(十五年戦争)に関する左翼の最大公約数的見解であることには違いないようです。
そして天皇の戦争責任については、前提として「天皇制は廃止すべきだ」という価値観があるため、”天皇制政治システム”には責任がある、従って”天皇”にも責任があるという結論が導かれるわけです。少なくとも18才の頃の私はこのようなイメージを持っていたのですが、それが次第に曖昧になり、やがて「ちょっと違うぞ」と考え出したのがここ10年位のことだろうと思います。今回昭和史を再検証して分ったのは、左翼史観が事実と異なるという点だけではなく、こうした見方では敗戦のイメージが捉えきれず、吉本のいう”大衆の原像”が見えて来ないことこそが最大の問題点だということでした。
戦中世代の磯田によれば、
「戦争の帰趨に対して明晰な予感をもっていたのは一部の知識人や学生だけで」、「非左翼系の人びと、および普通の市民大衆は」、「敗色の濃くなってきた時期には、日本が勝つとは思えなかったにもかかわらず、負けたとした場合の『戦後』については、ほとんど想像ができないというのが実情であった。」
とされます。
また敗戦のイメージは、「『玉音を拝して感泣嗚咽』という見出しの記事には、『民意ひとしく断腸の思いにすすり泣いた』」とあり、この心情は「深い悔恨をともなって『陛下にわびる』」というものであったようです。そして「『和平』の選択が『聖断』によるものである以上、『皇国再建』こそが『聖断』を生かし『聖恩』に報いることだという論理が、国民心理の動揺をかなり鎮静し、かつ『戦後』の受容を方向づけるのに役立った」と語っています。そして、「一方では『文化国家再建』の思想が叫ばれ、他方、初期占領政策によって公認された『革命』の思想が登場」してくるのは、8・15のずっと後のことであるとされています。
結局、左翼公式史観によって敗戦を見てしまうと、戦争責任は”天皇制”のみに帰着してしまい、一人一人の国民の責任を問い直す作業が放棄されてしまうということです。確かに天皇の戦争責任に関してはGHQの方針も当初決まっておらず-9月の天皇のマッカーサー訪問が影響したという説もあり-ようやく翌年の東京裁判開始の頃までに、天皇訴追せずの合意がなされたようです。しかしそれは連合国の政治的判断であり、法的・政治的にはどうかといえば、保坂によれば、「一見すると天皇は絶対権力者のように」見えるが実際には「それは名目にすぎず国家意思の決定権は閣僚の手中ににぎられていたことになる」、それ故「天皇は一切の責任から免れる状態にあり、当然のごとく戦争責任そのものを問うことはできない」というのが憲法上の解釈となるようです。
けれども、私たちにとっての課題はむしろ明治憲法のもつ不透明さであり、その第4条・第11条において「天皇が統治権・統帥権の総攬者であるにしても、その大権は政府や参謀総長・軍令部総長に付与されている」点です。この部分がこの後シビリアンコントロールの欠如、陸海軍の対立といった事態を派生していく原因となるからです。およそ国家というものが統合されていく過程では-それが右であれ左であれ-、何らかのシンボルが必要とされ、前近代国家であった明治政府はその公典である明治憲法にも万世一系の神聖な天皇を謳わねばならぬほどに脆弱であったというのが一つの回答でしょう。
そしてもう一つの問題は、この天皇というシンボルが据えられてからたかだか80年も経たないうちに、それもあれだけの惨禍の後で、何故これほどの天皇と国民の関係が形成されたのかという点です。昭和天皇は1946年の人間宣言に続き全国巡幸を開始しますが、それが各地の国民の歓迎を受け、人々は咽び泣き万歳を叫んだのです。そのあまりのフィーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、また当時禁止されていた日の丸を揚げる者がでてきたことで、GHQが中止せねばならないほどの熱狂ぶりがうかがえるのです。それは例えば、原爆投下後の1947年12月の広島においても同様だったのであり、やや重い課題として私には受けとめられるのです。

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