吉田茂の焦慮

 戦後の日本の出発点を担った政治家とされる吉田茂は、昭和42年(1967年)10月に死亡し、その葬儀は戦後初の国葬とされましたが、私たちにはほとんど印象に残らなかったというのが正直なところです。しかし、今回昭和史を遡って来た私は、当時の佐藤首相と前首相池田勇人の二人こそ吉田の愛弟子であったこと、国葬とされたのはこうした人脈の影響だったことに初めて気付いたのです。
 しかし、私たちの中では1967年10月は、その佐藤首相の訪ベト阻止闘争で山﨑が死んだ第一次羽田事件としか記憶されておりません。学生達の過激行為が未曾有の経済成長の仇花だったことは先に述べましたが、この繁栄の路線を選択したのが吉田であり、60年安保後に所得倍増政策でその路線を具体化したのが池田であることを思う時、人は何か象徴的なものを感じないでしょうか。
 サンフランシスコ講和条約に全権で臨み、同時に旧安保条約に単独で調印して、その後さまざまな論議を呼ぶ日米体制に道を開いたのも吉田だったのであり、60年安保に至る構図もこの時に決まっていったと申し上げてもよいでしょう。保坂正康は、「この社会の疲弊や病態を緻密に分析していくと、ある源流に辿り着く」として次のように述べています。
 「憲法上軍隊と称することはできないのに、その内実ははるかに戦前の軍隊そのものを超えている軍事組織が存在する。経済的には一定の成功をおさめ、国際社会では相応の地位を確立したが、しかし哲学や理念が喪失している状態が続く。憲法の条文と現実の間に乖離があるのにそれを詭弁でやりすごす歪みがはびこる。」
 また、榊原英資によれば「あの時期の政治的選択としてはやむをえなかった」が、その後、「日米機軸が日本の戦後の外交、あるいは戦後の国家のあり方の基本になってしまったということ」が非常に問題だとされ、「結局、いまの日本のいろいろな問題をたどっていくと、日米機軸、安保条約に行き着く-(中略)-日本はいま国家としての体をなしていない。そして国家としての体をなしていないことを選択したのが、じつは吉田茂」であったとされ、現在の日本は、「つねに頚動脈に安全カミソリを突きつけられて、それでいつでもアメリカが切れるというような形の、ある意味では半国家」なのだと批判されるのです。
 では軽武装・経済経上主義で知られている「吉田ドクトリン」とは何なのか、またそれを支えた吉田の思想はどのように形成されたのか。保坂によれば「吉田ドクトリン」とは、「一言で言ってしまうなら、『日本の防衛(軍事)はアメリカに依存し、もっぱら経済国家をめざす国家戦略』と言っていいだろう」「このドクトリンは-(中略)-吉田自身が出発点にあっては『過渡的なやむを得ざる道』と思っていたのに、それから五十五年を経た現在に至るも続いていることになる」とされるのです。
 要するに、出発点を担ったのは吉田でしたが、その吉田自身が”経済成長”のみに専念した場合の未来に最初から警鐘を鳴らしていたということのようです。この歯止めが60年安保で利かなくなり、その後どうなったかについては既に読者もよくお分かりのことと思います。
 さらに吉田の思想形成に関しては、その出身や経歴から当時には珍しいエリートであったこと、イギリス式ビジネスを成功させた養父と儒学者一族の母の影響のもとに大志を抱いて外交官になったこと、戦前、戦中に英・米の駐日大使と開戦を回避するための活動を続けて最後は検挙されたことなどをあげながら、保坂は次のように吉田の歴史観をまとめています。
「(1) 維新の大業を成し遂げた先達の描いた国家戦略は正しい。
 (2) 昭和はその国家戦略を歪めて『一時的な変調』を来した」
 さらに、天皇制については、「国家は皇室を中心とする家族共同体」であり、外交に関しては中国嫌いの英国好きであり、その理由は「日英同盟によって日本は多くの権益を得た」からとされるのです。この点について姜尚中は、「『英国贔屓』であった吉田茂が、日英同盟の戦後版として日米同盟を理解した」と言っています。
 論者によって評価が分かれますが、共通するのは「社会主義になるよりはましな選択」という見方です。しかし私が気にかかるのは「バカな軍人」、「バカな国民」という吉田の言と、保坂のまとめの中の「昭和は一時的な変調を来した」という点です。昭和史をたどってきた私の目から見ると、国民は昭和という時代を自ら選択したと思われるのであり、吉本が”大衆の原像”と見、磯田が”ナショナル・アイデンティティ”と呼んだ多くの国民の実像が、エリート故に見えなかったのが吉田の限界だったのではないかと考えられるのです。

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