単眼的トラウマ

 60年安保から70年にかけて検証してきた今、私には”左翼”の持っていたさまざまな弱点が時代と共に顕わになり、その脆弱さ故に経済成長の結果もたらされた豊かさの中に埋もれていかざるを得なかったような気がします。ただ、だからといってそれに変わる価値観は未だ誰も身に付けておらず、現在の時間が幸せで充実していると考えている日本人はごく少数ではないかと思われます。置き去りにしてきたままの時間を次世代に引き継ぐ自信も湧いてこないことを、私たちは一体どのように考えたらよいのでしょうか。それに答えるには、何故”左翼”は大衆から離反していったのかを再考してみる必要がありそうです。
 吉本は「丸山真男論」の中で、敗戦の光景を三つに区分しました。
 「戦争で疲労し、うちのめされた日本の大衆は、支配層の敗残を眼のあたりにし、食うに食い物がなく、家もなくなった状態で、何をするだろうか?暴動によって支配層をうちのめして、自らの力で立つだろうか?
あるいは天皇、支配層の『終戦』声明を尻目に徹底的な抗戦を散発的に、ゲリラ的にすすめることによって、『終戦』を『敗戦』にまで転化するだろうか?
 しかし、日本の大衆はこのいずれの道も選ばず、まったく意外な-(中略)-道をたどったのである。大衆は天皇の『終戦』宣言をうなだれて、あるいは嬉しそうに聞き、兵士たちは米軍から無抵抗に武装を解除されて、三々五々、あるいは集団で、荒れ果てた故郷へ帰って行った。よほどふて腐れたものでないかぎりは、背中にありったけの軍食糧や衣服を詰め込んだ荷作りをかついで!」
 この第一のコースが左翼、第二のコースが右翼の本来たどる道であるはずが、実際の所は一部将校の反乱を除けば日本の無条件降伏は驚くほど淡々と受容されたのでした。そして第一のコースを取るべき左翼は、占領軍に解放されて初めて結社・表現の自由をつかんだのであり、戦後の出発点において既に状況認識を誤っていたことは、米軍を「解放軍」と規定した共産党の綱領にも明らかでしょう。磯田がいうように、ここから戦後の思想が出発するのであり、敗戦のイメージが各人によって異なることが各々の戦後史の空間を規定していくわけですが、左翼陣営は右翼とは異なり労せずして戦後に生きる権利を手に入れたため、吉本が指摘した”大衆の原像”は見えてこなかったのだと思われます。
 もう一つの問題点は「転向」に関する不毛な議論であり、マルクス主義が一つの宗教のように捉えられていた時代の「背教の罪」ばかりが延々と繰り返されたことです。”裏切り”とか”日和見”とかは心情の問題であって、政治的有効性とは全く別次元の問題であるにもかかわらず、左翼の流派においては”非転向”が思想の評価軸のポイントだったことは否めないでしょう。しかし「政治」が責任倫理の世界である限り、「政治と文学」など論じていられるのは”学生”のような気楽な身分にあるからにしか過ぎないのです。
 この「政治と文学論」に唯一生産的な視点を与えたのはやはり吉本であり、磯田によれば、
「日本の風土にひそむ呪縛力を明晰に見きわめながら、日本回帰の思想の経路を断ち切ろうという試みである。ここでは戦前マルクス主義の観念が、モダニズムの変種としてとらえられ、かつての知識人が風土に無自覚であった分量だけ、風土に足をすくわれた」
とされています。
 獄中にあって非転向を貫いた者を支えた思想こそ旧左翼の歴史観に他ならないのですが、史的唯物論は発展段階論を色濃く内蔵しており、非転向者はやがて来る資本主義の没落と社会革命の公式ゆえに耐え続けることができたのだと思われます。それはイデオロギーが現実から乖離し”宗教”にまで美化されるという意味で、当時の圧倒的に不利な状況で情報を遮断されながら戦争を担っていた者たちの背後にあった、”皇国史観”と表裏の関係にあったのではないでしょうか。
 この間の事情は、「理論による歴史の図式化」であり、「個人の恣意性をこえたものとして歴史をとらえ、個人の位置づけを歴史の展開の有機的な一部とみる世界観と呼べる」、という磯田の言が当っているように思われます。また両者にはアジア論としての類似性もあり、右翼論者の用いる「大東亜共栄圏」と左翼歴史学者のいう「アジア解放論」を比較してみると、「その差異はアジアの盟主を日本とするか、共産中国とするかという、いわば同一の楕円の焦点の相違にすぎない」とも指摘されます。両者の類似性は「公」意識の過剰さにもみられ、それは忠誠心でいえば”天皇”か”党”かに向けられ、ストイシズムであれば”通俗的なものへの嫌悪”と”大義への憧れ”が共通している点に現れるのです。
 これと関連して”エリート意識”も無視できぬ点であり、60年安保の所で引用した福田に言わせれば、
「主流派諸君-(中略)-歴史を手本とする教養主義を棄てたまえ。警官より物を知っており、郷里の百姓に物を教えうるなどという夢から醒めたまえ」。
となるのです。心情倫理に甘えた類型化した思考様式しか持たず、現実から乖離したモラトリアムなエリート達は、パワーポリティクスの貫徹する現代史のさまざまな局面で単眼的トラウマに陥っていくのです。
 ところで、冒頭で引用した吉本の”日本の大衆”はその後どうなったのでしょうか。彼らが何故無言で「村」や「家」に戻っていったのかを考える時、私には当時のこの国の圧倒的貧困を思い浮かべずにはいられません。対米開戦時の比較で40対1とも100対1ともいわれようが、あらゆる物資が集中していた軍に比べ”欲しがりません勝つまでは”とされた「村」や「家」の状態は、とても近代戦を支えるレベルまでは到達していなかったのだと思われます。上下水道や電気・通信といったインフラ面はもちろん、薪・炭・石炭を燃料とし馬と荷車に頼っていた物流、かまどや洗濯板を相手にしていた女たちはその日の食糧にも事欠いていたのでした。そのような状態で、彼らにどんな選択肢があったのでしょうか。
 昨日までのスローガンを転換した口の達者な民主主義者に辟易としながらも、彼らが圧倒的な価値大系と物量を誇るアメリカに帰依していったのはごく当然のなりゆきでした。そして「アメリカ崇拝の心情は、おそらく天皇制のメンタリティと多分に共通」していたのであり、ナショナルアイデンティティの断念にうしろめたさを感じながらも、彼らは経済的な獲得に突き進んでいったのです。経済構造の枠組みが完成するのが昭和30年(1955年)、車・カラーテレビ・クーラーが各家庭に装備されたのが昭和45年(1970年)頃とすれば、中間にある60年には時々思い出されるナショナリズムを日米経済戦争に置きかえながら、日本人は何としても恥ずべき「村の家」から脱出したかったのではないでしょうか。

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