平和と民主主義の神話
60年安保とは何だったのか。私たちの世代とは10年程隔たりのある当時の状況について考察することは、ひと頃のマスコミ・文化人や旧左翼によって多用された「平和と民主主義」の実体的内容を明らかにすると同時に、政治力学だけでは見えて来ない戦後史の重要な問題にも触れる糸口となるように思われます。
と申しますのも、講和条約と同時に調印された一方的で片務的な旧安保条約を双務的なものに改めることが安保改訂であるなら、「なぜ反対運動が、”声なき声”にいたるまで広汎な大衆運動として展開」されたのかが疑問となるからです。また、「安保条約の廃棄を革新勢力が求め保守派は安保堅持」をはかったなどというのも一面的な見方に過ぎず、改定交渉はその数年前から保守派によって開始されていたのです。軍事基地が占領の間接的な継続であった限り、何らかの改定は保守にとっても最大の課題であったことに変わりはなかったのです。
この過程を振り返ってみますと、岸首相帰国後から続いた国会の紛糾は、5月20日の強行採決後一般市民の間にも反対運動を巻き起こし、議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化していくのが見て取れます。6月10日には米大統領報道官ハガチーが空港周辺に詰めかけたデモ隊(全学連反主流派=代々木系)に包囲され、海兵隊のヘリコプターで救出されるという事態となります。しかし、これはまだ序の口に過ぎず、6月19日の自然成立を前にした全学連主流派(=ブント)の国会突入戦術の激しさは、警官隊(の他にヤクザや右翼団体も)との激しい衝突となり、6月15日には遂に樺美智子が死亡する事態を引き起こしたのです。この惨事に対する各派の対応から私たちは、「戦後的民主主義」の実体への手がかりをつかめると思います。
以前から全学連主流派を極左冒険主義と非難して来たのは共産党ですが、陸上自衛隊の治安出動を要請した岸に対し当時の防衛庁長官赤城宗徳はこれを拒否、国家公安委員会にも反対されてしまいます。こうした状況の中、17日には在京新聞7社が「議会政治を守れ」とする社告を掲載、デモ隊の暴力・社会党の審議ボイコット等を非難したのでした。こうして新聞論調は死者を出した全学連主流派に対し一挙に批判的になっていきます。
以上の構図を整理すると、保守派が-安保廃棄という長期目標の本音をかくして-「改定」を強行したために、革新勢力の反対目標は「安保」そのものではなく、「間接民主主義の手続き論」に矮小化し、岸退陣により運動は急速に退潮していったのだと考えられます。
「福田恒存がいみじくも指摘したように『社会党や文化人はその死(注・樺美智子の死)を最後の拠点として、国民運動の盛上りを期待し、警官による虐殺説・国民葬などを思いついた。その間における全学連主流派の立場は微妙である。彼らは〔革新勢力から見て〕功労者であり、かつ邪魔者であったからだ。同行者の暴行を否定しながら、しかもその成果だけは貰い受けたいというのが、社会党・文化人の日頃の流儀である。』」
旧左翼の「戦後民主主義」が、結局は体制内改良を目指すものでしかないことがここに明白になるわけですが、論理的破綻は状況認識の甘さにおいても同様だったのです。日米関係に関する限り、当時の状況を正確に認識していたのは自民党と新左翼の側であり、旧左翼側が事態をさほど分析できていなかったことは、吉本隆明の次の一文で明らかでしょう。
「その対立は竹内の『民主か独裁か』に公然と書かれているように竹内好が『人民議会と人民政府をつくる』具体的プログラムの提示がわたしや『若い連中』に存在しないことをアナキイであると論難したことからうまれたのである。-(中略)-安保闘争はたかだかうまくいって-(中略)-岸政府の打倒にとどまるだろう-(中略)-だから-(中略)基本的プログラムなどは思いも及ばない。(『竹内好論』)。」
安保闘争がこのように位置付けられるとしたら、残る疑問は何故それが国民的運動になり得たのかという点になりますが、磯田光一は戦後の反米ナショナリズムをキーワードとして次のように述べています。
「当時の革新勢力の-(中略)-錯綜した論理のうちには、かつての戦争の苦痛を体験した日本人はいかなる戦争も繰返すべきではないという、普遍的な『平和の理念』が中心に据えられている。それと同時に社会主義国への知識人の思い入れが、『安保条約』=『帝国主義国家の軍事同盟』という認識の構図を生み出していて、この構図へのアンチテーゼが、アメリカの軍事力から開放されたいという大衆ナショナリズムの潜在感情と、いつ知らず協和音を奏でていた側面もあったのである」。
しかし、これだけでは「戦後的平和」の実体的意味合いは明確にならず、磯田はもし竹内プログラムが実現されていたらという仮説を立ててそれをさらに検証していきます。
「岸信介氏はあえて竹内好の主張する『人民政府』または革新政権をつくらせ、安保条約の存在しない世界で、どのように恐怖と風圧に耐えるかを検証させるべきであった。そのとき-(中略)-いかなる政府もトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で展開した国家統治の問題を内包することなしには、存立さえできないことを、人びとはしたたかに思い知るべきであった。そこを通過しないで、一国民の政治的成熟がえられるであろうか」。
「1960年の時点で問題が露出していたならば、その後の保守派の独走-(中略)-と革新勢力の空想的な平和主義との不毛な対立」は無くなっていたのではないかというのです。
けれども歴史に仮説はなく、この年11月の総選挙で自民党が300議席を獲得することで国民は新安保条約を追認し、池田内閣の提唱した所得倍増計画にこぞって参加していったのです。「戦後的平和」とは結局勝ち取られたものではなく、「自民党は60年安保に表面的に勝つことによって、かえって戦後国家の重要問題を日米同盟に頼るかたちで隠蔽し、国民的合意を求める時期を遅らせてしまったのである。そして逆に革新勢力が意に反して獲得した高度成長が」どのような欠落をもたらしたにせよ、その結果は一人一人が引き受けねばならないのだと私には感じられるのです。
【参考文献】
「近代日本総合年表」第一版(岩波書店)
磯田光一「戦後史の空間」(新潮社)
保坂正康「昭和史七つの謎」(講談社文庫)
オープンコンテントの百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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