抜け落ちた視点(1)中世の寒冷化

安良城説も含め中世の下人・所従の社会構成的意味をめぐる論議は、生産力発展論を中核とする発展段階論として奴隷制を問題にするものだったが、実際のところは奴隷制が拡大したのが中世社会の特質であると磯貝氏は述べております。すなわち、中世においては、年貢・公事未済に対する完納強制システムとして百姓身分の者が家族や自分自身を売却して奴隷身分化することが慣習化していた。また頻発する飢饉のたびに多くの民衆が富家に奴隷または奴隷的隷属民として取り込まれている。このような奴隷の再生産システムが体制化・常態化している点に中世社会の特質があるのであるが、それを裏付けるのが中世における農業生産力の低下であり進歩発展史観では解けないという事なのです。
実際、中世百姓家族の奴隷転落現象は 1230年秋の大凶作に始まる寛喜の飢饉を契機として大規模に生じてから以後、次第に合法化し恒常化していく。この時期は山本武夫氏が気候変動論で指摘されている気候の悪化(冷涼化)期と一致している。鎌倉中・後期以後の時期は、気候の冷涼化がかなり進行してきたことにより農業生産力が大きな障壁に直面し、とくに稲作の生産性が後退し、減収分の補てん目的として水田裏作や畠作が拡大したが、全体的には 15世紀中期に至るまで農業生産性の悪化が進行していた。水田裏作拡大は農民にとっては補てん策以外に、田麦非課税原則を盾にして稲作減収分についての年貢減免闘争展開の手段ともなっていたため、社会的矛盾は一段と激化していった。したがって、鎌倉末から南北朝・室町期における社会的激動は、従来想定されていたような生産力発展を背景とした革命的情勢として見るべきではなく、農業生産性が後退し障壁に直面したことによる社会的矛盾の激化の表れとしてみるべきと磯貝氏は主張するのです。
鎌倉幕府法の奴婢規定は現実に対応して出されたものであって、奴隷所有者層の奴隷所有をめぐる紛争処理を行うことが重要な機能の一つをなしていた事が論証されているわけで、制度的に奴隷制が黙認されていたのがこの時代だったというわけです。つまり、鎌倉幕府が飢饉時に餓死防止目的で人身売買黙認や有力者による飢え人扶養策を取ったことが、後にその人身売買を追認しさらに被扶養者奴隷化公認に追い込まれるに至る。この一連の政策は、過去の労働の成果たる食料が有力者の私的所有物に帰したこの社会にあっては、公権力たらんとして人々の命を助けようとすればするほどそうせざるを得ないものとして迫られたものであり、これが社会システム化したその後の中世社会は、同胞奴隷化が進み奴隷制が社会秩序をより深く刻印づけて行ったのだということです。マルクス主義歴史学者の発展段階史観と真っ向から対立するこうした観点は、奴隷制拡大事実を、農業生産力後退・停滞の中での社会関係の後退あるいは破壊的要因の拡大問題として認識し、奴隷制度研究の論点が社会関係破壊程度論へと変化せざるを得なかったと氏は総括しております。蒙古襲来も奴隷分解に促進的に作用したのだが、これは多大な負担に苦しむ御家人達がその所領への課税を強化したからである。その他、倭寇についても検討する必要があるとされています。

ここで氏の規定する奴隷の定義を上げますと、以下のように説明されます。
① 所有の客体で、実際には様々な生活諸条件の中で生活しているが、主人はその生活諸条件・諸関係から切り離して彼の身柄を支配・処分し得る
② 奴隷の所有行為は主人の所有権の枠内において営まれる
③ 主人の生殺与奪の権の下にあって殺害にまで及ぶ懲罰(折檻)の対象
となっている
④ 典型的経済状態として、主人から給養される立場にある
この時代、有力者の家族内には、奴隷身分を最下位とする家族内身分序列が成立していた。純粋な奴隷身分=自由に売却できる、奴隷的隷属民=所有者の一代間は自由に駆使できるが売却はできず子孫にも相伝できない、奴隷から自由民に引き上げられた者=自由民。
また主人が女奴隷に生ませた子のうち女子は奴隷身分、男児は自由民身分になるが、その男子はその家庭内で奴隷を母とするということで差別的に扱われた。貧しい自由民はしばしば有力者から下人の女性を妻として与えられ、「従者婿」として使われる身となり、他方家庭内ではその妻を支配する立場に立つ等々。このような有り方が社会において一般化していたとしたら、奴隷制度が社会を規定した時代だったということになるわけです。
なお、中世の奴隷の呼称は「下人・所従」のほかさまざまで、「家人」
「従者」「奴婢」「雑人」「下部」「被官」「譜代」「名子」「荒し子」「小物」「候人」等々だったようです。

なお、安良城氏以後の研究者たちは社会経済学的なアプローチを放棄してしまったということで以下のように述べられております。

非マルクス主義歴史学の研究者は、一方で10世紀初頭に出されたとされる「延喜の奴婢  解放令」の実在を信じ、また実在は否定するものの実際はその後「奴婢」は名ばかりで実際の奴隷は農奴に進化して奴隷はほとんどいなくなっていく、鎌倉幕府法と中世法制史料に「奴婢」の語が見られても、その法は現実的に意味のないものだったとする認識が幕府法の専門家にあっても通説化していった。

また、網野善彦氏を中心とする反動的な歴史観については、以下を参照。

最近の中世史家が中世百姓の“自由”を強調しすぎる傾向に対し、安楽城氏は彼らの非自由民 =隷属民としての性格を強調しているが、その根拠として磯貝は、日本の中世百姓身分は奴隷身分に対して日本的自由民身分といえるが、それは彼らが 公事・年貢を負担している限りであり、逆にその重圧は現実においてはその家族や本人を奴婢身分に落とさざるを得ない性格のものであったと考える。

【参考文献】

・安良城盛昭「天皇・天皇制・百姓・沖縄」(吉川弘文館)
・安良城盛昭「「天皇制と地主制〈上下〉」(塙書房)
・磯貝 富士男「「日本中世奴隷制論」 (校倉書房)
・ルシオ・デ・ソウザ、 岡 美穂子 「大航海時代の日本人奴隷」(中央公論新社)

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