薩長皇国史観を捨てよ

「どこまで堕ちれば気が済むのか」

先ず、下の Twitterを見てください。

一昨日、

愚民というか奴隷根性と言うか、そうした精神構造が日本人というものを規定しており、その淵源は何であったのかを考える必要がある。
そして、
改竄は「日本書紀」に始まり、遣唐使として中国に渡った日本国の使者は、その偽りの史書の言葉で自らの「歴史」を語り、中国側はそれを疑いの目で見たとされる。
生き残った日本人は正しい歴史観によってしか大陸半島勢と対峙することができない。

と述べました。
ところがこの国では現在老いも若きも洗脳状態で、
東アジアにおける相対的国力の低下が明らかになるとともに、
「日本凄い論」が蔓延しつつあるのは非常に危ない状態です。
今日はネットを検索するとよく出てくる一人を取って、
いかに彼らの歴史観が間違っているかを証明したいと思います。

東北大学名誉教授・田中英道というのがその男なのですが、
まあ著書など読まなくとも出版社の解説文で概略は分かる。

「中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された、日本史初の女王・卑弥呼。「邪馬台国」を支配し、中国皇帝からも認められた「倭国の王」である。しかし不可解なことに、、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていない。
一国を支配するほどの権力者であれば、死後、地域の神社で祀られるのが普通だが、、日本各地の神社にも、遺跡にも、卑弥呼が存在した痕跡が一切見当たらないのだ…(*日本では、聖徳太子や菅原道真、平将門など、国を直接治めていない偉人でさえも、鎮魂の祈りをささげるため、神社がつくられてきた伝統がある)
また、“邪馬台国の人々の顔や身体には刺青がある”と「魏志倭人伝」には書かれているが、当時の遺跡や遺物をいくら調べてみても、刺青をしているような痕跡はほとんど確認されていない…
ちなみに、著者の陳寿という中国人は、実は日本に来たことはなく、伝聞のみ。つまり“フィクション小説”として、この作品を記したようだが、、
一体、卑弥呼とは何者だったのか? 本当に邪馬台国は存在していたのだろうか?

冒頭から「悠久の大和王朝が近畿に存在した」、
ということが前提になっており倭国は九州にあったのだという、
九州古代史の会の人々の地道な活動など、
全くなかったように妄想が膨らんでゆくことに驚かされます。
そりゃ近畿など探していても卑弥呼の痕跡など出てこないのはあたり前。
大芝英雄氏によれば卑弥国というのはもともと韓半島にあったのであり、
2世紀の倭国大乱にあたって遼東の公孫氏がそれを鎮めるため、
卑弥呼を倭国に派遣したわけです。
我が古代史論を引用すると、

倭国大乱の本質に迫り、女王卑弥呼の出自や邪馬台国の位置を割り出したのは大芝英雄氏であったとされます。

後漢はその末期に朝廷内で宦官と外戚の争いが激化し、加えて黄巾の乱(184年)が起こったため、楽浪郡による韓半島支配は韓や濊によって侵されるところとなった。この時、遼東半島にあった公孫康は、半島に帯方郡を建て、そこへ公孫模・張敞の二将軍を遣わし討伐し、半島南部の倭も帯方郡の下に置いたとし、こう続ける。 「遼東半島支配者の公孫氏は、朝鮮半島も実効支配し、その征討軍の行動は建安年間(196~220年)であり、「倭国大乱」の終結時に符合する。公孫模・張敞の二将軍は、半島の南端、倭の 狗邪韓国(3世紀)に達し、九州の「倭国大乱」平定の懇願を受け、方策を立てて、精鋭一軍を派遣し、鎮圧せしめた可能性がある。」それを『三国志』「魏志倭人伝」にある「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす」と記すのに大芝英雄は重ねる。

大芝氏は上記のような半島・列島の状況を描きながら、さらに卑弥呼の出自を、『三国志』「韓伝」の50余国の一つ、半島西岸の卑弥国の出身としていますが、それはこれまで邪馬台国を機内か九州かと実証的な事実もないまま論争してきた官製史学を一足飛びに超えて、卑弥呼の出自を列島外に求めた画期的な業績であったと室伏氏は述べています。「馬韓人は鬼神を信じ、鬼神に仕える」という記述が『三国志』「韓伝」にあるのに対し、こうした鬼道の風習が「倭人伝」にはないことから大芝氏は卑弥呼の出自に迫ったわけですが、「言われてみれば、卑弥国を日巫国と解すなら、『太陽信仰の巫女の国』となり、卑弥呼は日巫女となり、出自国とするにまことふさわしい」と室伏氏は称賛しています。
室伏氏によれば、大芝氏の画期的な業績はこれにとどまらず、唐代に成立したものの中国本国では失われ、唯一日本に残る『韓苑』に引用された『廣志』という漢籍から、邪馬台国の位置を比定するうえで決定的となるくだりを引き出した点にあるとされます。すなわち、

邪(なな)めに伊都に届き、傍(かたわら)斯馬に連なる

という一条がこれだというわけです。糸島半島というのは現地に行ってみればわかりますが、この伊都と斯馬が合わさった地域であり、現地に赴いた者の証言をもとにしたものであろうと考えられます。「倭人伝」の記述を元に帯方郡からの距離と方位を割り出して推定していたこれまでの学者たちと異なり、この『廣志』の一条ほど決定的な証言はないのだと室伏氏は指摘します。伊都国については邪馬台国畿内論者も認めているわけですが、この伊都国に届くところに邪馬台国があったなら、それが遠く離れた近畿にあったわけはないということになるのですが、これ一つをとってみても、わが国の歴史学の惨憺たる状況が明らかとなるわけです。
大芝氏は、こうして邪馬台国の位置を二丈町に決定づけたのみならず、さらに「倭人伝」に記され女王国の南にあるとされた狗奴国と、『廣志』に記された邪馬嘉国が同一の国であることを発見していくこととなります。これにより邪馬台国の時代の勢力分布がさらに詳細となったわけですが、この邪馬嘉国が現在の山鹿市と見なされれば、隣接する菊池市の件も含め、先ほどお話しした委奴国のその後の運命と重なる形になっていきます。こうした発見の裏には、なんといっても土地勘が必要だったのでしょうが、地元の地理に詳しい民間史学者の地道な努力がようやくつながったといえるでしょう。これにより邪馬台国問題は、「畿内説か九州説かの対立といった焦点ぼけした段階から、ピントの合った高質画像を我々は持つに至った」と室伏氏は述べています。そして「邪馬台国が伊都国に隣接するなら、卑弥呼の墓が機内にあるはずはなく、畿内説が声高に云々する箸墓は問題にならない」と続けています。
卑弥呼がその後、238年に魏に朝貢し、魏が親魏倭王の金印紫綬を与え、その中に銅鏡100枚があったことや、その後も243年・247年と朝貢を続けたことは有名な事実として広く知られております。そして、247年に卑弥呼が死亡し、男王に代わったものの諸国再び乱れ、邪馬臺国は臺與を形式上の女王として晋に朝貢するのですが、この後狗奴国により滅亡していく形になります。 この卑弥呼の死亡についは、狗奴国との抗争によるというのが一般的な解釈ですが、室伏氏は 247年の「詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、檄を為して告諭せしむ」に続き、「卑弥呼以て死す」とある点に注目し、卑弥呼は賜死の疑い濃厚と推理します。そして、これ以降巫術政治を一掃することが図られ、多くの祭祀者は東に流れ畿内に亡命して行ったのではなかろうかと述べています。3世紀初頭という時代は、出雲の国譲りに始まる銅鐸祭祀から銅境祭祀への転換があった激動の時代であり、その頃豊前でも南船北馬の抗争が行われた。この時追われた出雲系・九州系に、同じく追われた卑弥呼系祭祀集団が合流し、三輪山の太陽(春日)信仰が成立したのではないだろうかとされます。この春日信仰で三角縁神獣鏡がレガリアとなるのはこうした背景があったのであり、このあと全国的に南船北馬が課題となり、春日信仰が広まって三角縁神獣鏡と前方後円墳が量産されたのではないかとされております。

皇国史観丸出しのこうした男の論を有難がる風潮こそ斜陽日本を映す鏡
と言えるわけですが、
漢籍や半島の歴史との照合も何もせず、
この後は「日ユ同祖論」や「世界最古の縄文文明」などが語られ、
縄文がなぜその末期に8万程度の人口しかなかったのか、
という歴史人口学の鬼頭宏による考察など完全にスルーされてしまうわけで、
大本営発表と同様自分に都合のいいものしか見ないという体質が見て取れます。

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