“事変”と”戦争”の温度差

 かつて左翼陣営から「十五年戦争」という概念が提出されたとき、その背景には太平洋戦争の戦死者や空襲による国内の損害といった「被害者意識」だけでなく、満州事変から日華事変に至る日本の侵略がもたらした責任を見つめる「加害者意識」も必要だ、とする贖罪の観念があったのではないかと思われます。確かに死者数を比較してみると日米戦による日本人の犠牲を300万人とすると、日中戦による中国側の被害は1000万人を超えるとされ、こうした見解も当たっているかも知れません。しかし抑条湖事件以降の歴史を一括してまとめてしまうと、「軍国主義」や「独裁」がいつ成立したかという問題が曖昧になってしまうことも否めません。
 このことに関して磯田は、
「戦時下の一時期を軍事占領体制とみることには法的な根拠」があり、その時期については、明治26年に制定された、「『戦時大本営条令』は大本営の設定要件を戦時に限定し、日露戦争ではそれが守られたが、日中戦争においては宣戦布告がないのに陸軍は閣議の決定を経ない軍令で『大本営令』を制定した。この時点で文民統制が失われて軍による占領体制が成立したとみる正当な根拠がある」
と述べています。
 手続き的には日華事変が起こった昭和12年(1937年)11月、「戦時大本営令」が勅令によって廃止された後に、軍令のみで「大本営令」が公布されるのですが、この一連の流れにより戦時以外にも設置可能となった大本営が、天皇直属の最高統帥機関として、-文官を除外して-太平洋戦争の終結に至るまで存続していく形となったのでした。この年1月の広田内閣総辞職後に組閣を命じられた宇垣一成が、陸軍の反対で陸相を得られずに組閣を辞退したこと、また後任の林鉄十郎内閣も陸相後任問題が難航したことなど、11月の軍部独裁への途は着々と進行していったのです。
 1937年7月の濾溝橋事件の真相は今も明らかになっているとは言えませんが、当時の近衛内閣の”不拡大方針”にもかかわらず、戦線は上海から南京を経て中国全土に拡大していったのでした。戦闘を拡大し兵員が増強された背景には、陸軍の「対支一撃論」があったのですが、これは大軍で威嚇し攻撃すれば中国はすぐに折れるという考えです。しかし中国軍は予想を上回る強力な兵力で応戦し、一撃すれば屈服するという言葉とは裏腹に、日本軍は泥沼の戦争状態に突入していかざるを得なくなったのです。広大な国土と膨大な人口を擁する大陸で、局地戦というよりはゲリラ戦に明け暮れるとき、そのスケールと時間は日本人の感覚と大きく隔たっていたと思われます。
 また、軍事作戦のみを重視し、情報や諜報活動を軽視して来た陸軍の弱点もあげておかねばなりません。当時ソ連のKGB・ドイツのゲシュタポ・イギリスのMI6などが既に整備されていたにもかかわらず、日本で「陸軍中野学校」の設立をみるのは昭和13年(1938年)7月、この間の事情を保坂は、
「日中戦争で、日本は軍事力で中国の主要地域を制圧することはできても、政治的には中国の政治指導者を屈服させることはできないと気づいた。硬軟とりまぜての工作が必要であることに気づいた。」
と述べています。
 ところで、この泥沼の戦争は「日中戦争」・「日華事変」・「支那事変」などさまざまな名称で呼ばれていますが、実はこのことに重大な理由が潜んでいたのです。つまり日中双方とも昭和16年(1941年)までは宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかったわけですが、その理由は戦争状態に至った場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じるからなのです。外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとってはもちろん、国際的孤立を避けたい日本側にとっても、正式の戦争という事態は回避すべきものだったのでした。いや、むしろ中国大陸を取り巻く列強の利害こそ、この”事変”と”戦争”の温度差に敏感だったのではないかと映る節もあるのです。
 先ずアメリカですが、1935年に成立した「中立法」は交戦国や内乱国への武器・軍需物資の輸出を禁止していたため、”戦争”は避けるべき事態だったのです。日本に対する「中立法」の適用も検討されたものの、中国へ多量の武器等が輸出されていたこともあって発動が見送られたという事情があったのでした。”事変”の長期化に伴って英米は、援蒋ルートを通じた重慶国民政府への支援を大量に公然と続けていったのです。
 次にソ連の姿勢ですが、‚20年代より共産勢力を援助してきた経緯から、国共合作後には対日戦線を全面的に支援することが、満州国・日本と対峙するうえでは必然的となります。しかし、ノモンハン事件(昭和14年=1939年)以降は、極東で日本・欧州でナチスドイツに対抗することが優先され、中国国内への援助は限定的となっていったようです。
 最後にドイツですが、日本とは前年の昭和11年(1936年)に日独防共協定を調印していたにもかかわらず、ヒトラー承認のもと蒋介石側に在華軍事顧問団を派遣していた事実が判明しています。人的・物的な支援は1920年代後半から始まって1936年のハプロ条約締結に至り、これに対する日本側の強硬な抗議にもかかわらず、1938年ごろまで続けられたとされています。このような経緯をどうとらえるべきかといえば、第一次大戦後の日本によるドイツ利権の奪取に対抗する動きだったと考えるのが妥当だと思われます。すなわち、独領南洋諸島や青島を占領(1914年)した日本はその後山東省におけるドイツ利権等の獲得を目指して、21ヶ条の要求(1915年)を提出して列強不在の中国へ進出していったのですが、ドイツ側もそれ以前は三国干渉(1895年)や義和団事件(1901年)に見られるように、中国分割を進めていたのでした。
 敗戦直前の8月に、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦を布告してきたことはよく知られていますが、日本人がとかく条約や同盟を”信義”ととらえがちであるに対し、相手方はこれを”パワーポリティクス”の手立てと考えていたのではないでしょうか。ドイツ軍事顧問団の存在は歴史的事実ですが、その武器を捕獲した日本がこれを”ソ連製”と偽らざるを得なかった事情をみつめる時、私たちは再び「単眼的トラウマ」の問題に行きつくように思われます。因みに、ドイツではプロイセン時代に黄禍論が盛んであり、それが対日政策の基本にあったとされています。

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