陸海の亀裂

 前節でふれた「十五年戦争」という概念の成立には、実はもう一つの背景があったのではないかと私は考えています。それは関東軍による張作霖爆殺事件(昭和3年=1928年)頃から始まる軍部の暴走と、それに伴う左翼知識人への弾圧という暗い時代の記憶が底流にあったのだという仮説に他なりません。
 そのような視点で当時を振り返ってみますと、昭和4年(1929年)旧労農党代議士山本宣治の右翼テロによる刺殺、同5年(1930年)三木清・中野重治等が検挙(三木は敗戦の年9月に獄死)、同6年(1931年)大川周明の軍事クーデター未遂、同7年(1932年)5・15事件、同年6月特高警察設置、同8年(1933年)小林多喜二の検挙と虐殺、同年8月滝川事件、同10年(1935年)天皇機関説事件、同11年(1936年)2・26事件、同12年(1937年)第一次人民戦線事件で山川等400余人が検挙、同13年(1938年)大内・美濃部等検挙、など枚挙に暇なく、その年国家総動員法が公布され時代は戦時色を強めていくのです。
 軍部独裁の制度的完成が昭和12年(1937年)の「戦時大本営令廃止」にみられることは前述しましたが、その前年(昭和11年=1936年)に「陸海軍大臣現役武官制」が復活していたことも忘れるわけにはいきません。この制度は内閣総理大臣の組閣にあたって、軍部の同意が事実上必要となる仕組みと申し上げられ、軍部の意向に沿わない組閣は阻止され、組閣後も軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことで倒閣を可能とするものでした。文民統制はここに完全に崩壊するわけで、以後政府が軍部の独走による既成事実を追認することしかできなくなる一つの大きな原因となったのです。
 しかし、より根本的には、明治憲法に潜む曖昧さが問題だったのではないでしょうか。その第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という文言は、立憲君主制に基づいた通常の解釈と同時に、統帥権すなわち軍事作戦における命令・実行権限が立法・行政・司法から独立しているという解釈をも可能とするからです。およそ国家の国防方針の策定にあたっては国家戦略と軍事戦略とが整合している必要がありますが、”統帥権の不透明さ”は政・戦略の不一致をもたらし、旧軍の統帥権独立を巡って軍部が政府と対立するという深刻な事態を来したのでした。
 さらに帝国憲法が先の条文で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と謳う時、陸海軍は天皇の下に同等に並立する独立の機関であるという解釈になってしまい、これが歴史的な陸海軍の対立を背景に、戦略・戦術のさまざまな局面で二元化を来していくのです。すなわち、陸軍に関しては「陸軍参謀本部」、海軍にあっては「海軍軍令部」をもって最高司令部と位置づける二元的で不備な体制が、国防思想の不整合・作戦行動における不和・内部対立などを生じ、それは仮に「大本営」が設置された戦時・事変時においても同様だったのでした。これらの深刻な問題は、明治期においては”元老間”での調整事項とされたようですが、最後の元老たる西園寺公望が没したのが昭和15年(1940年)、陸海軍は内部矛盾を抱えながら日米戦に至るのです。
 こうした事情を最も際立たせたのが昭和19年(1944年)10月の台湾沖航空戦であり、保坂によれば、12日から16日までの戦闘で海軍航空部隊がアメリカ機動部隊に壊滅的打撃を与えた、という大本営発表がなされたというのです。「当時の新聞は、大見出しを掲げて国民を鼓舞」し、「政府は各地で国民大会を開くよう指示し、天皇にも御嘉賞の勅語を発布せしめた」とされています。
 ところがこの内容には海軍内部からすら不審の声があがり、厳密な調査の結果、壊滅したはずのアメリカ機動部隊はほとんど無傷で台湾やルソン島にも攻撃をしかけていることが判明したそうです。ところが海軍は陸軍にこの情報を伝えなかった、何故なら「海軍は陸軍にこの恥を伝えるわけにはいかなかった」からです。
 問題はこうした誤情報に基づき次の作戦が決定されたことであり、台湾沖で大戦果があがったのだからルソン島での地上軍の移動は容易な筈であり、したがって「レイテ島に日本軍を集結させ、疲弊して上陸してくるわずかの敵に決戦を挑むというシナリオ」が書かれたのでした。結果的にこの作戦で、10万人余の将兵が「あたら命を失った」とされています。

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