悪質な皇室行事(1)

「歴史的事実と全く違う」

このところほとんど毎日といっていいくらい、
天皇の退位や即位に関する報道が過剰というほど流されている。
で、12日は「期日奉告の儀」(と称するもの)。
今後の主な儀式予定は、
▶3月25~28日 皇后とともに京都・奈良訪問
▶同 26日 神武天皇陵(奈良県橿原市)参拝
▶4月18日 伊勢神宮参拝
▶同 23日 昭和天皇陵(武蔵野陵、八王子市)参拝
▶同 30日 宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)参拝
「退位礼正殿の儀」(宮中)
こんな宗教儀式を”国家行事“として行うこと自体がおかしいのですが、
今古代史論を書いている自分にとっては、
奈良県橿原市の神武天皇陵と伊勢神宮参拝がすごくひっかかる。

大芝英雄氏は、
「論拠を「中国史倭国伝」を主とし、「記紀」を従とする論考であったのであり、東洋史の客観性からいって歴史の流れは九州王朝説にいずれ変わることが必然的である」
などと婉曲に語っていますが、
今現在「神武は筑豊に東征した」という、
古代史論の部分を書いている身にとっては、
そんなことでは収まりがつかない。
そこで登場してもらうのが福永晋三氏で、
以前もご紹介したように、万葉集を漢字で読んだ結果日本の古代はすべて、
九州での出来事だったと解明した人。
この人が福岡の田川の香春岳の周辺を調査した。
この山が実は三輪山なのですが、

それで神武はですね、最終的にこの「畝傍(うねび)山」の東南に橿原宮を築くわけです。日本書紀に書いてあります。だからこれが香春岳、仮に天香山であり、ちょうど3つの山になってますから、これ畝になりますよね?あの畑の畝とか畝織とかの畝ですね。畝の尾っぽですから、一ノ岳か三ノ岳のどっちかが畝尾(うねお)なんです。どうも三ノ岳が天香山、銅の採れる、金の採れる中心地みたいですから、中心の山ですから、今と順番逆で一ノ岳の方が当時は畝尾であったんだろうと思われます。
畝の尾っぽです。これが書き換えられて、読み替えられて、「うねび山」(畝尾山/畝傍山)であるならば、日本書紀には畝傍山の東南に橿原宮建ててあったんです。そこに「高野」(たかの)という地名がありまして、そこに鎌倉の鶴岡八幡宮よりも50年早く出来た鶴岡八幡宮がございます。その下に多分、神武の橿原宮が埋まっているんだろうと私は推測しております。後は教育委員会か何か、掘ってくれりゃ良いだけです。
掘れば多分証拠出てくると思います。もう一つ面白いことがあります。神武が亡くなって、畝傍山の今度は東北の陵に御陵(みささぎ)に葬られたって書いてある。そこにはですね、香春町に行かれるとわかると思うんですが、こういう名前の弥生時代の円墳があるわけでございます。「おほきんさん」って言う。漢字で書けば先程の万葉集のこの「大王」です。あるいはせいぜい「大君」、こっちですね。このどっちかであることは間違いないです。
もう一つ。固有名詞が付いてません。秦の始皇帝陵と同じです。「初代」だから付いてないんです。ひょっとしたらこれが神武さんのお墓だという可能性があります。ぜひ香春の町に行かれたら、歴史資料館があります。そこの学芸員のノムラさん、あるいは郷土史会会長の柳井さんという方に案内してもらえれば、この「おほきんさん」の墓まで案内してもらえると思います。
今はですね、まわりにごく普通の人たちのお墓が集まっておりますがね、その真ん中にデンッと弥生時代の円墳が直径15メートルぐらいですかね?今はあります。これが多分、神武さんのお墓であろうと。嬉しいことにこの私の仮説を受け入れてくださった(*不明)さんと、それから郷土史会会長さんともう一人、その香春町の学芸員のノムラさんという先程の若い方ですがね。
今までは太宰帥の、誰とかのお墓だっていう風に言われてきたんですが、私のこの本あたりがですね、やっぱり野村さんの手に届きまして、その若い学芸員さんが中央の学説から少しずつ離れ始めまして、「いや確かに香春の土地は古いんだ」と、「今までは律令以後のことしか言わなかったけど、やはり香春の町も弥生時代、あるいは縄文時代、そこまで遡って歴史を言わなきゃいけない」ということを、その若い30代の学芸員さんが言い始めたんですね。

ということ。

だっから、
奈良県橿原市の神武天皇陵なんてものは完全に嘘っぱちなんです。
私は詳しく調べていないけれども、
何でも江戸時代の末期に皇国史観に合わせて、
急ごしらえでつくったものだという話を聞いております。
悠久の大和王朝などというのはデタラメ
だということを、
日本人はすべからく認識しなければいけないのに、
藤原氏のねつ造した明日香の石舞台や何かを見に行って、
そこでランチを食べたり子供を遊ばせたりして恥じるところがない。
この調子で 1300年きたというのですから驚きです。
ちなみに、入鹿の首塚=大津皇子の処刑場、
石舞台古墳(馬子の墓)=物部連雄君の墓、
鬼の雪隠・俎=壬申の乱の物部吹負の墓をひっくり返したもの、
甘橿丘の蘇我氏邸宅跡=物部連雄君の邸宅跡、
ということなのです。

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