大和朝廷の起源

「尻尾をつかんだ」

古代史の勉強もだいぶ進んで、
聖徳=アメノタリシホコの辺りまで到達し、
後は蘇我氏の滅亡を経て、
白村江の戦いから壬申の乱を迎えるところまで射程に。
でも、どうも大和朝廷の起源が論者により様々で何とも言えない。
室伏氏の説は年代から言って無理があり、
福永晋三さんの説もYES/NOで没となった。
では、今読んでいる兼川晋さんの説、
「卑弥呼が 朝鮮半島から派遣されて一旦乱が治り、
その後狗奴国が再び勢いを取り戻す中で死亡し再び混乱していく頃、
神武が伊都国にあって筑豊へ東征した」。
これをYES/NOで見たところNOという結果に。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87)

で、次の大芝英雄さんの本に当たって、
その説の信憑性を見たところようやく大筋で正しいという結果に。
実は、古田武彦氏始め九州王朝論者がよって立つのは、
基本的には「記紀」の記述なのですが、
戦後の歴史学は「記紀」が神話としたものを全て排除し、
合理的に考えられる部分のみに話を限定したわけで、
これが致命的な間違いだったと彼らは言うのです。
例えば、神武東征譚、饒速日ニギハヤヒや、
邇邇芸ニニギの天孫降臨などがそれで、
九州王朝論者によると、
神武の辿った経路の地名は全て福岡県田川地方に存在する。
大芝英雄さんも九州の方で実地に それらを検証されたわけですが、
他の論者との違いは、
饒速日の天孫降臨が欠史八代の初代に該当し、
遅れてきた天孫族であるニニギ系統の神武は、
ニギハヤヒ王朝第9代開花の時に豊前に侵攻し勝利した。
しかし、そこで新たな王朝を創始したわけではなく、
豊前国内の状況から、
ニギハヤヒ王朝第10代崇神として君臨したというのです。
神武に関しては「記紀」ではさまざまな隠ぺいがなされているわけです。

ニギハヤヒがニニギよりも先だったことは皆共通しているのですが、
それをどう位置づけるかに成功したのは、
大芝英雄さんの卓見によるのではないか。
ただ、大芝さんのいうニニギの侵攻が370年とすると、
兼川晋さんの4世紀後半以降の精緻な考察とぶつかってしまう。
年代をYES/NOで確認しなければなりませんが、
おそらく、 前後5・60年ぐらい遡らせると上記の年表のようになり、
これが正しいのではないかと考えられます。
逆に言えば、
ニギハヤヒ王朝の成立と滅亡年代が確定すればその他も確定する
ことになるわけで、
私の古代史の勉強もようやく出口が見つかりそうな状況です。

PROTOサイエンスから、あなたへ

株・先物・ギャンブルで実証された「予知能力」について知り、
治癒・好転に導く「驚異のパワー」を体感してみませんか

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA