日本古代史に残された課題

「研究者よ来たれ」

昨日、古代史論の最後として、
「東北王朝論」をアップしました。
読んでいただけば一目瞭然ですが、
古代津軽において縄文文化を引き継ぐ形で蝦夷の王国がきずかれ、
粛慎や靺鞨に由来する民族に、
九州倭国の倭人や大陸半島勢が入り交じって、
荒吐王国がきずかれた。
九州倭国とこの東北王朝との間には縄文以来の交流があり、
稲作や製鉄の技術もほぼ同時に伝来した。
これらの出来事がほぼ正確に記述されたのが、
『東日流外三郡誌』であり、
寛政時代の学者である秋田孝季によって書写編集された、
ということです。

この偽書とされた『東日流外三郡誌』は、
津軽の和田家に連綿と受け継がれてきたため、
「和田家文書」とも呼ばれますが、
古田武彦氏がベースにしたのは明治期の写本であり、
寛政期の秋田孝季の自筆による「寛政原本」は、
膨大な資料の中からようやく発見されたものであり、
それまでの写本を上回る正確さで、
古代史の本質的な部分に迫る内容であったとのこと。
例えば、稲作の伝来についても、
従来の考古学的アプローチが BC4・5世紀ごろとしていたものが、
放射性炭素同位体を用いた研究により、
4・500年さかのぼったとされていますが、
「寛政原本」にもそのような記載があったとのこと。
さらに製鉄技術の伝来についても卑弥呼により筑紫から伝来した、
という記載があるとのこと。
そのほか、秋田一族の祖先は天台宗と関係が深いのですが、
この天台宗の起源をさかのぼると高天原にたどり着く。
そして、この高天原がどこにあったかといえば、
中国広州の寧波(ニンポー)に行きつくという記載がある。
これは、現在の九州王朝論の到達点と一致し、
海人族の起源に迫る内容であったとのことです。

このような記載がある『東日流外三郡誌』の「寛政原本」ですが、
古田武彦氏によっても全容が判明したわけではない。
ただ示唆されているのは、
いわゆる東高西低だったとされる縄文文明が、
実は逆に西高東低であったのであり、
東日本の遺跡が点状であるに対し西日本は面状に出現している。
なぜ西日本の縄文文明が痕跡もなくなったのかといえば、
7300年前の喜界カルデラの噴火により埋もれてしまった。
その時当時の縄文人たちは各地に避難したわけですが、
一隊は中国長江流域へいたり、
その地でのちに稲作文明を発達させた。
この民族が春秋戦国時代の大陸の動乱により、
再び九州から西日本に上陸したのがわが国の稲作の始まりとなる。
あるいはまた、南米エクアドルにまで到達した一行もある。
それゆえ南米には日本語類似の地名がたくさんあるとのこと。
かなり壮大なパースペクティブになってくるわけですが、
これらがきちんと読み説かれていけば、
縄文から以降の歴史がかなり見直されなければならない
わけで、
私共もYES/NOによって信ぴょう性を確かめてから、
取り組んでいきたいと思います。

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