超古代史論の終焉

(2015年筆)

 今、「神代文字」「北海道古代文字」さらに「ペトログリフ」の発見過程を振り返ると以下のようになり、ある種の共通した時代性が見えてくるのではないかと思われます。

1821(文政4)年 宮崎県高千穂町の天の岩戸神社で「岩戸文字」発見
1831(天保2)年 大分県土氏村の宗像家で「上つ記」(宗像本)発見
1866(慶応2)年 北海道小樽市の手宮洞窟で続縄文時代の岩絵が発見
1909(明治42)年 北海道小樽市で富岡古代文字が発見
1919(大正8)年 北海道忍路村のストーンサークル付近で忍路文字が発見
1934(昭和9)年 北海道泊村の遺跡発掘中に泊古代文字が発見
1929(昭和4)年 酒井勝軍が皇祖皇太神宮で竹内文書を拝観、その半年後に再訪して古代イスラエルのオニックスを「発見」し、「参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒」を出版、1936(昭和11)年に「神字考」を出版
1980年代 日本ペトログラフ協会が発足、下関市彦島の岩に彫られたシュメール文字など、各地で発見されるペトログラフの本格研究が開始

 最初が明治維新前後の国民国家形成時であり、次が昭和の国粋主義へ向かう時代、最後が80年代~90年代に至る経済大国を背景とした時代というのが妥当かと思われます。そうした時代に日本人が何を考え、どういう方向で自らのアイデンティティを確立していったかがこれらの過程から読み取れるのではないかというのが筆者の考えです。

 例えば、日本ペトログラフ協会々長の吉田信啓氏の著書の題名をあげれば自ずからその思想性がお分かりいただけるのではないでしょうか。「日本のペトログラフ-古代岩刻文字入門」(91年)はともかく、ここからいきなり「超古代、日本語が地球共通語だった!-岩刻文字(ペトログラフ)が明かした古代"ワン・ワールド"の謎」(91年)と飛躍してしまうのです。この延長上に「超古代日本は世界の臍だった-石が語り始めた超古代日本の謎」(93年)「神字日文解(かんなひふみのかい)-ペトログラフが書き換える日本古代史」(94年)や「神字日文考(かんなひふみのこう)-九州古代王朝の謎を解く!! 」(99年)などの古代史本が次々と発刊され、それ以降は「奇跡のペトログラフパワー-超医学は実在する」(95年)「魔法の石-The Oracle Rock」(03年)など、代替医療や運気UP・願望達成などの分野までがその対象となっていく様子がよくわかります。

 次に神代文字や北海道古代文字の分野では、日本探検協会を主宰する高橋良典氏を取り上げてみると、北海道異体文字を含む神代文字と超古代文明の関連が主張され、北海道異体文字についてはシュメールやアッシリアとの関連が示唆されているようです。そうした視点は私たち同様のアプローチであったとしても、そこから突然「日本とユダヤ謎の三千年史-原典日ユ同祖論」(87年)が導かれたり、「太古、日本の王は世界を治めた!-神代文字が明かす消された歴史の謎」(94年)とか「超図解 縄文日本の宇宙文字-神代文字でめざせ世紀の大発見! 」(95年)、さらに「日本が創った超古代中国文明の謎、秦始皇帝・徐福と太古日本の世界王朝をさぐる」(同年)などと飛躍してしまうところは大いに問題です。致命的なのは、ここでもやはり記紀神話が考察のベースに用いられている点です。

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 では本当のところはどうなのか、多くの関連書籍をYES /NOで視たところ、まず出てきたのが朝枝文裕氏の「北海道古代文字」でした。小樽市手宮洞窟で1866年(慶応2年)に発見された岩絵を文字とする説もあり、これについては突厥文字(ツングース系の言語)という解釈がなされてきたのですが、その半生をこの文字に捧げた郷土史家の朝枝氏はこれを中国古代文字と唱えたのでした。後志沿岸ではこのほかにも古代文字が発見され、これらは甲骨文字や金文の時代相を反映しており(泊絵文字=4千年前・忍路古代文字=前15世紀以前・手宮古代文字=前10~12世紀・富岡古代文字=前5~8世紀)、

 「1千余年間の支那本土の文字の変化を、明らかに写し出していることである。四つの古代文字は、文字の発生から、二千年もの間の文字の重要な変化を、歴史的に見せていることである。驚くべき事実である。これは支那本土と北海道が、長年月間密接に連絡していなければ出来ないことである。」

 しかしこれらの文字は、前6世紀ごろを境にして何故か消えていくのです。氏によればその理由は、殷・周の神権政治の消長と運命を共にしたとされます。

 「殷の初期では牛羊等の肩甲骨を使用し、中頃から亀甲が使用されるようになった。」
 「彼らの神権政治はいずれも卜占を用いていたのである。従って家畜の獣骨の外に鹿の肩甲骨も重要が多かったと思われる。」
 「東洋の海をわがもの顔に雄飛していた殷の遠征船団は、勿論北海道にも来たであろう。そして毛皮の争奪戦にも加わっていたであろう。その頃思いがけず鹿の肩甲骨が浮かんできたのであろう。-(中略)-その鹿がこの地方に群生していたのである。」  「然るに神権政治の終わった今から二千数百年前を限りとして、本道の古代文字も絶えているのである。-(中略)-西周の卜占政治が衰退した時に支那の海外貿易も亦微力となり、船団の本道への来航も少なくなり、古代文字の遺跡も見えなくなったものと推せられるのである。」
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 朝枝氏の明確な論理により、ここでもまた縄文と超古代とをつなぐ可能性は潰えたと思われますが、あとは「ペトログラフ」の検証のみが残された形となったようです。ただこれについても先にご紹介したような吉田信啓氏の論を取り上げるわけにいかないことは当然で、信憑性のある本をYES /NOでみたところ、在野の歴史言語学者である川崎真治氏の「日本最古の文字と女神像」が唯一見つかった次第です。

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 実は「彦島のペトログラフ」は既に1924(大正13)年に見つかっていたのですがそのまま放置され、本格的な研究が1952(昭和27)年に行われるもその時点では解読不能、1982(昭和57)年に地元の郷土史家がこれを平家の財宝のありかを記すものと発表して以来、ようやく一般の関心を引くようになったという経緯がありました。下関周辺にはこれ以外にも古代文字の遺跡・遺物が多く、上記の吉田信啓氏をはじめ方々で同様の線刻模様が発見されるに至ったのです。

 「漢字でない、漢字以前の文字が、下関市彦島に存在したのである。-(中略)-なにしろ、紀元前1800年ごろ、シナイ半島で作られたシナイ・アルファベットが漢字より以前に、あるいは漢字と併行して下関にある・・・という話なのだから。」

 この事実をどう考えたらよいか、川崎氏は上記の「七支樹二神文様」を手がかりに、得意の歴史言語学的アプローチによってこの難問に挑んでいくのです。

 「どうして、日本の地に七支樹二神文様と、シナイ文字のヂャサラがあるのか-(中略)-私は、その問いに対する答え方の一つとして、『七支樹二神思想』『牡牛神ハルと蛇女神キの祭儀』の東遷があると考えている。」

 氏によれば、こうした文様は何も下関周辺だけでなく、北海道から九州までまんべんなく存在しており、氏と全国の愛好者によって発見されたものも含めれば1988(昭和63)年時点でも50余を数えるまでになっているとのことです。また、そのうち5か所は縄文後期のものとされています。また、これらに記されているのは何も七支樹二神だけではなく、中国殷代の文字・インドのモヘンジョダロ文字からバビロンの楔形文字まで混在し、縄文後期から古墳時代にかけての日本各地と半島はかなりのレベルで多様な民族・文化が流れ込んでいたというのです。さらに、七支樹二神と同時に、亀と蛇の玄武神(九であらわされた男女二神)が併記されているものも結構あるようです。七支樹二神は月神系でその淵源はイラクのウルク(現ワルカ)に遡り、九の玄武神は日神系でエジプトに端を発するということです。

 「原郷のウルク市から発した七支樹二神思想、すなわち仏教以前の原始宗教、キリスト教以前の原始宗教、イスラム教以前の原始宗教の一つだった七支樹二神思想が、中国の殷代末期~周代初期に、日本列島の各地へ、殷人の移動と共に渡来した」
 「それらの画像・文字は、紀元前3000年紀のウルク市から発して紀元前2000年紀の中国へ入り、さらに中国化された文字および記号が日本へ、紀元前1200年前後に入った」
 「七支樹の三枝の側に坐る牡牛神ハルと四枝の側に坐る蛇女神キを奉斎する七支樹二神思想は、中国の夏、殷代において中国思想の骨髄となり、甲骨文字、金文、篆文、漢字を造る際の原理、造字原理となり、さらに伝播した日本の古代においても、先着のエジプト系玄武二神思想と相まって日本神道の根幹を成した。」

 ペトログラフに関する川崎氏の論証により、少なくとも日本の超古代史論は完膚なきまでに敗れたことがこれでお分かりいただけたと思います。YES/NOで視ても、

・縄文時代に文字は無かった
・少なくとも5~20万年前の日本に、超古代文明や神代時代は無かった
・同じ時代に限れば、世界のどこにも超古代文明は無かった

と出ておりますので、本稿の冒頭で取り上げた浅川嘉富氏のアプローチについては、もう一度資料そのもの(カブレラストーン)から見直しを図る必要があるのではないかと考えられます。ただ人類の発祥に関してYES/NOで視ると、

・ヒトはサルから進化したのではない
・ヒトの創造は地球上ではなく、地球外で行われた

という結果でしたので、太古のロマンはまだまだ解明の余地があり、私達の超能力の源についても多くの謎が残されていると申しあげられます。

 それにしても同一の遺物を前にして、上記の朝枝・川崎両先達と吉田・高橋両氏の結論が天と地ほども異なる点には驚かされます。地元の小学校長朝枝氏が戦前から北海道古代文字に取り組み、暇さえあれば現地を訪ね、晩年発行された本の中で逡巡しながらも確信を強めていく姿勢こそ研究者というものに必要な資質ではないでしょうか。

 現在の歴史学会の主流は、手宮古代文字を

 「かつてはこれを『文字』と考え、解読した人すらあらわれました。しかしフゴッペ洞窟の発見以来、アムール川周辺に見られる、岩壁画と良く似た古代の彫刻であることがわかってきました」(小樽市総合博物館)

などといっていますが、こうしたトンチンカンな見解こそ我が国の学会が何ら有効に機能していない証左であると申しあげられます。同様の批判を浴びて表舞台から駆逐された感のある川崎氏は、

 「残念ながら、日本の考古学者一般の文字に対する認識は世界的レベルに達していない。あいもかわらず『文字』といえば中国の漢字という、井の中の蛙的認識にとどまっている。一例をあげれば、円筒埴輪の小破片に刻まれていた文字を『漢字』と解釈し、あまつさえ、その小破片の写真を上下さかさまにして紹介している」

 といっています。これまで本論で引用してきた地球膨張論の星野通平教授、古代史の小林惠子氏や鳥越憲三郎氏、言語学の小泉保氏などの説も学会主流からは程遠い所にあるといえます。しかし、これらの研究者に共通するのは、大胆な論を構築する傍ら一貫して専門分野から逸脱しないという謙虚さではないでしょうか。

 「巧言令色、鮮なきかな仁」といわれますが、この言葉がよく当てはまるのが本章の最初に取り上げた吉田・高橋両氏であり、またこれまで取り上げてきた超古代史論者の多くや、UFOもの・偽史伝もの・予言ものなどの著者たちもそのほとんどが-故意か過失かは別として-、こうした体質がベースにあるのではないかというのが率直な感想です。有効に機能しない既存の学会をしり目に、今後もさまざまな「研究」が発表されていくことでしょう。ねじれたナショナリズムが織りなすこうした我が国の状況はかなり危機的であり、思想的・学問的に大いに問題だと考えられます。さらにまともな研究者たちの多くが鬼籍に入ったかあるいは高齢化している点でも、なぜこうした閉鎖的思考がこの国で繰り返されるのかをグローバルな観点から抉りだしていくことが急務だと思われます。

【参考書籍】
・藤芳義男「神代文字の謎」(桃源社)
・朝枝文裕「北海道古代文字」(朝枝千景発行)
・川崎真治「日本最古の文字と女神画像」(六興出版)
・伊藤俊幸 日本人の起源
・Webナショジオ 研究室に行ってみた。国立科学博物館 人類史研究グループ 海部陽介
 第5回 実は世界の最先端だった旧石器時代の日本列島