大地震と金融恐慌

 大正12年(1923年)、関東大地震が第一次大戦後の戦後恐慌を構造的に悪化させる中、同15年(1926年)年末には天皇が崩御、一週間ほどの昭和元年が終わった翌昭和2年(1927年)は、暗い時代の始まりにふさわしいものでした。正月は全国民が喪に服し、歌舞音曲の停止・演芸娯楽放送も中止され、繁華街などの色とりどりの看板もすべて取り払われ、逓信省では年賀状の取り扱いもやめにします。作家の永井荷風は元日の日記に、「年賀状は少なく通りには羽子板の響きもない」と記しています。
 そして昭和が始まって3ヶ月後には、東京渡辺銀行やあかぢ貯蓄銀行の取付騒ぎが起こり、その波がどんどん波及して金融恐慌が始まっていくこととなります。この一連の流れがある意味昭和6年(1931年)の満州事変へと続くわけですが、同年起こった東北・北海道の大冷害は、当時の貧しい農村を直撃するとともに他分野へも甚大な影響を与え、経済は農業恐慌へと突入することとなるのです。経済・金融・農業などに有効な対策を立てられなかった政党内閣は、翌昭和7年(1932年)の5・15事件により崩壊し、政治は軍国主義の時代へと入っていくわけです。自然災害が歴史に影響を与えたとしたら、この時の関東大地震と東北大冷害ほど時代を変えた出来事はなかったのではないでしょうか。ですから、事実上の昭和史は関東大地震に始まると申し上げられます。

 この震災は当時100億円程度のGNPしかなかった日本において、60億円という膨大な被害をもたらしました。それだけではなく、震災のため決済ができなくなった手形を割り引いた震災手形と呼ばれるものが、4億3,000万円余りもあったといわれています。国家予算が8億円規模の時代ですから、その金額がいかに大きいかがお分かりいただけると思いますが、実はこの中には本来の震災とは関係のない、第一次大戦後の戦後恐慌にからむ不良債権も多量に含まれていたのでした。このため1920年来の不良債権が大量に温存される事態が起き、昭和初めには2億円余の震災手形が未決済となり、これを巡って倒産する銀行も出ていた状況だったのです。こうした背景の中昭和2年(1927年)、震災手形の処理を審議中の議会における大蔵大臣の失言を機に、取り付け騒ぎや銀行休業など金融恐慌が発生し、当時の大商社の鈴木商店の倒産・台湾の紙幣発行権を持つ台湾銀行の休業などの大恐慌に発展してしまったといわれています。若槻内閣が倒れ、その後の田中内閣によるモラトリアムで一応の収束をみますが、実態は日銀特融によって一時的に危機を先送りしたに過ぎず、これを打開するための金解禁政策(昭和4年=1929年)の失敗と、同年の世界恐慌の波及により、その後昭和7年(1932年)頃まで続く昭和恐慌の幕が開くことになるわけです。

 次に農業恐慌ですが、当時の産業構造からいって、農林漁業就業人口が1,030万人と二次・三次産業を大きく上回っていた状況から、一次産業の恐慌は産業全体への波及力がかなり強かったとみるべきでしょう。特に東北・北海道の当時の状態は赤貧といってもよく、昭和6年(1931年)の東北・北海道冷害と、昭和9年(1934年)の東北の冷害・大凶作は深刻なものでした。年表を見ると「山形県最上郡の一村、娘457人中50人が身売り(各地で家族離散の悲劇続出)」とか「秋から冬にかけ、借金累積、娘の身売り、欠食児童、行き倒れ、自殺、厳寒など惨状を極める」とあります。詩人宮沢賢治がその遺稿「雨ニモマケズ」の中で「サムサノ夏ハオロオロアルキ」と詠んだのは、ちょうどこの昭和6年の大冷害の年であり、飢餓線上にあった農民は岩手県だけでも3万人に上ったといわれています。

 こうした圧倒的に悲惨な事実が、当時の純粋な若者たちの目に入らないはずはなく、一方はプロレタリア運動に身を投じ、他方は皇国史観の下で5・15事件や2・26事件へとつながっていくのでした。身売りで都会に出て来た遊女たちと、同郷の兵・下士官たちとは廓で悲しい再会を果たすのですが、心情だけは悲痛だったものの、国家・社会の全体像を捉えきれなかった者たちに現実的なプログラムがあったわけではなく、"反乱"は逆により強硬な"統制"をもたらす結果に終わったのです。

【参考文献】
「近代日本総合年表」第一版(岩波書店)
磯田光一「戦後史の空間」(新潮社)
保坂正康「昭和史七つの謎」(講談社文庫)
オープンコンテントの百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第1次大戦と20世紀(別宮暖朗)日華事変の開戦原因「ハプロ条約」
塩見孝也著「さらば赤軍派 私の幸福論」(オークラ出版)「パトリ論」
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