国民は押し並べて知るべし 2018年9月

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 皆さんお元気ですか、朝比奈です。

 2月末に九州王朝論を知り仰天したものでしたが、その後九州古代史の会の民間史学者の本に当たり、今回ようやく暫定的な古代史年表を作ることが出来ました。詳しくは来月「ウルトラSSとは何か」のDVDでお話しますが、学校で習ったのと全く違う我が国の歴史が展開しますのでビックリなさることと思います。

 先ず、春秋戦国時代に滅亡した呉の民が北九州へ流れ着いて前5世紀に遠賀川上流に原倭国を作り、その後同じく越の民が前4世紀に出雲(八雲王朝)~越前・越中・越後に流れ着いたのが発端。これら南船系の中に半島経由の北馬系民族が侵攻してくるのですが、出雲では前2世紀にスサノオによる出雲王朝、北九州では前1世紀に原倭国が博多湾岸に押し出されて委奴国が創設。この委奴国は57年に後漢から金印を賜りますが、2世紀になると北馬系民族のさらなる流入により倭国大乱と呼ばれる状態に(出雲の国譲りも)。そこで半島から卑弥呼が擁立され暫しの安定を来たすのですが、3世紀後半には再び騒乱状態へ。邪馬台国は現在の糸島にあったのですが、この頃豊前ではニギハヤヒ王朝が成立し、そこへ3世紀末にニニギ系の神武が侵攻するのですが、ここで新王朝を創らず第10代崇神を称し、「記紀」もその前を欠史八代とごまかした所が古代史を複雑にしてしまいます。4世紀はこの筑豊王朝が血統を変えながら継続するのですが、そこへ百済の王統が攻め入るのが396年。この系統が5世紀中倭の五王として君臨するのですが、515年には扶余系の継体のクーデターで滅亡し、その後は蘇我氏が実権を握る上宮王朝が645年まで。この頃極東は唐の拡張政策の影響で圧迫され中大兄達は吉備・播磨へ逃避、九州に残った豊前系は百済滅亡を救うため全国に動員令を出すも663年白村江で完敗し、唐新羅占領軍と合意のあった中大兄が九州勢を尻目に近畿に近江朝を。

 が、チベット反乱による占領軍撤退と同時に九州天武が蜂起するのが672年の壬申の乱。しかし天武の死後は、再び近江朝が再興されて奈良朝へ続くのが701年。概略こうなりますが、要は大和朝廷が悠久の昔から近畿に存在した事実などないことが実証されたわけです。また同時に、最後まで抵抗して朝敵とされた勢力が、その後東北へ移り蝦夷と一体となったという「東日流外三郡誌」が、東北日本の古代を反映していることも考慮すべきだと思われます。

 では、来月またお目にかかりましょう。