検証なき作戦

 今、手元の辞書で「大本営発表」と引いてみますと、本来の意味の他に、「ミッドウェー海戦の頃から損害の過少発表が目立ちはじめ、不適切な言い換えが行われるようになり、勝敗が正反対の発表すら恒常的に行ったことから、現在では『内容を全く信用できない虚飾的な公式発表』の代名詞となっている」と載っています。

 文中、「不適切な言い換え」とは、撤退を「転進」としたり、全滅が「玉砕」と表現されたりしたことを指し、「虚飾的」とは、「勇猛果敢な我軍は」とか、「忠勇溢れる部隊は」、あるいは「我有力なる陸海軍は」というような無意味な形容句の羅列を示しています。要するに戦時中の国民大衆は、戦況が悪化し敗色が濃くなればなる程、事実とはかけ離れた発表を聞かされていたということになります。

 では、この戦争は政府や軍部が国民を虚偽の情報で洗脳し盲目的な大衆を自在に操作したのかというと、少なくともその初期の頃はそうではなかったと思われます。詳しくは次節に譲りますが、大本営発表も「当初にあっては良心的で正確かつ丁寧であった」とされるからです。このように考えると、戦争に至る経緯にも国民大衆の意志は関わっていたのであり、当時の我が国にはある種のムードが醸されていたのだと見たほうがよさそうです。


 それはともかく、何故大本営発表は歪曲されていくのかについて、保坂は次のような点をあげています。

 第一に、「すべての情報が末端の機構からの自己申告のみ」であり、「上位機構に報告をあげる時、『我方の損害』を正確に書いたり、『敵の損害』をこれもまた正確に書くと、上位機構の将校から叱責される」ため、虚偽の幅がとめどなく広がっていくことがあげられます。

 第二に、「アメリカ軍では攻撃が終わると、必ずその戦果を確かめるために別な偵察部隊が戦闘地域に赴き、戦果そのものを写真にとって証拠を固めていく。開戦当初は、日本軍もまたそのようなシステムをもっていた。しかし敗戦が続き、あまつさえ玉砕が多くなると、そのような余裕など失われ」たわけですが、そうした点を考慮しても日米の重大な相違は、民主主義というチェックシステムを持っていたかどうかという点だとされるのです。
 第三に、統帥権独立の建前に根ざした陸海のセクショナリズムが、責任の押し付け合いや面子争いを結果し、正確な情報を統合する組織がなかった実態も明らかになっていきます。


 このようなメカニズムのもとで事実が軽視され、「思い込みを事実と信じてそれをもとに次の作戦」を立てたり、「客観的事実を認めない、いや認めることは自らを否定することにつながるとの恐怖感」が「願望や期待を現実にすりかえ」ていったのでしょう。また、「大本営発表の内容が真実か否かを知り得たのは制度上作戦参謀だけだったわけですが、その組織は陸大・海大の単なる成績優秀者のみで構成され、実戦経験など「有能な軍人であるか否かは問われない」システムだったようです。この現場を知らない中枢部が、軍司令官や連合艦隊司令長官をはるかにしのぐ権限を持っていた点にも病根があったのだ、と保坂は述べています。その根底には明治以来の謀略諜報活動の軽視、すなわちスパイ活動などは武士道精神に反する汚い仕事であり、エリートたるものの資質は、「作戦立案能力」や「天皇への忠誠心」にあるとする考え方があったのでした。

 大本営発表は以上のようですが、ではそれを報道した新聞やラジオなどに問題はなかったのか。マスコミ各社はよく、戦時中は検閲や紙の配給のために本当のことが書けなかったと言い訳しますが、それはどこまで信じてよいのでしょうか。朝日新聞に載せられた「肉弾三勇士」の物語(2007年6月13日)を読む限り、メディア自体に潜む体質が記事を捏造したり虚偽の発表をさらに修飾していったのではないかと思われます。メディアを鵜呑みにすることがいかに危険かは、第三章で詳しくお話したいと思います。

【参考文献】
「近代日本総合年表」第一版(岩波書店)
磯田光一「戦後史の空間」(新潮社)
保坂正康「昭和史七つの謎」(講談社文庫)
オープンコンテントの百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第1次大戦と20世紀(別宮暖朗)日華事変の開戦原因「ハプロ条約」
塩見孝也著「さらば赤軍派 私の幸福論」(オークラ出版)「パトリ論」
松岡正剛の千夜千冊
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